初心(罪障の深い凡夫であることの自覚)を忘れない
「無始已来の御文」の心を大切に―

○「初心忘るべからず」の真意を肝に銘じる  
 前回は「不軽菩薩の心をいただく
(Ⅱ)として『教えるということ』(大村はま著・共文社刊。その後『新編・教えるということ』として「ちくま学芸文庫」から他の講演録も収録して刊行されている)の内容も紹介しつつ、不軽流の大切な心得として「相手に対する真の尊敬」と「自らも求め続ける努力」のつが大切であると記し、その際〈「もとより罪根甚重の凡夫であることの自覚求め続ける心を支えますと申しあげました。この「凡夫の自覚」こそが当宗でいう「初心」なのです。  「初心忘るべからず」という言葉の本来の意味は世間一般でしばしば誤解されているような「最初の清純で善良な心、純粋なを大切にせよ」という意味ではありません。むしろ反対に「自分は欠点だらけの未熟者、至らない者だと自覚している心」なのです。免許取りたてで危ないことを示す「初心者マーク」の初心が本来の「初心」に近いのです。

 この言葉を有名にした世阿弥(ぜあみ)[能の大成者、観世(かんぜ)三郎元清・13631442(?)年。『風姿花伝(ふうしかでん)』『花鏡(かきょう)』等の伝書(でんしょ)も著名]の最晩年の伝書『花鏡』〈奥の段〉【岩波『日本思想大系24107頁】には次のように記されています。
「当流に万能一徳(まんのういっとく)の一句あり。初心忘るべからず(初心不可忘)。
此句(このく)三ヶ条の口伝(くでん)あり。
是非(の)初心忘るべからず。
時時(の)初心忘るべからず。
老後(の)初心忘るべからず。
此(この)三句能々(よくよく)口伝すべし。
万能一徳」とは「あらゆる芸(能)がそこから発露する根源となる一つの徳目」というほどの意です。「是非の初心」については「前々(ぜんぜん)の非を知るを後々(ごご)の是(ぜ)とす」と後文にあり、「自分は元来未熟で失敗ばかりしていると、その至らなさを自覚して忘れずにいることが今後の芸の上達のもとだ」ということで、言いかえれば「元来の未熟の自覚」の意。「時時」は「じじ」「ときとき」と訓(よ)み、例えば「二十代、四十代と加齢しても、その年代ごとにおいて常に未熟さを自覚していること」。「老後の初心」とは「老成し、大家・ベテランと讃(たたえ)られるようになっても、依然として芸には果てがなく、自分はまだまだ未熟で至芸には遠いと自覚する心」だとされます。

 要するに「終始一貫して最期まで自己の至らなさを自覚し、それを忘れないようにせよ」これが「初心忘るべからず」の真意なのです。それは『花鏡』の結文に「初心を忘るれば、初心子孫に伝わるべからず。初心を忘れずして、初心を重代(じゅうだい)すべし」とあることからも明らかです。 実際誰しも「自分は欠点だらけの未熟者、至らぬ者だという自覚」があればこそ、「我(が)」を捨てて「どうか宜しくご指導願います」という、素直に随順し、教えを積極的に吸収しようとする姿勢が自然に生じてくるのであり、それでこそ本当の改良や向上があるわけです。つのものごとを長年続けるということは、当然「慣れ」を伴います。ただこの「慣れ」には善悪両面があって、それが「熟練」「練達」の方向に向かうか、「悪狎(わるな)れ」や「横着」「慢心」の方向に向かうかは、一(いつ)に本来の意味での「初心」の有無、つまり「未熟さの自覚」の有無にかかっていると申しても過言ではありません。

○“基本”を大切に 
 
平成12年6月末に起こった「雪印乳業食中毒事件」や、平成11年の核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所の臨界事故などは、両事件ともその原因は、およそ信じ難い、最も初歩的な、当然守られねばならない基本をかにしていながら、それに慣れた怠慢さの中にあったのです。自己の危(あやう)さ、未熟さを忘れ、基本を忘れることの恐さを教えてくれる大きな教訓だったと存じます。車の運転で、初心者もそうですが、むしろベテラン運転手が時に大事故を起こすのも同様です。『論語』には「顔(がん)回なる者あり。(中略)過(あやまち)弐(ふたたび)せず。」雍也(ようや)第六とあります。顔回は師の孔子に先立った若い弟子でしたが、真の意味で“学ぶ”ということを知っており、だからこそ「一度失敗をして自分の未熟さを知ると、深く反省・改良に努め、以後は二度と同じようなちを繰り返すことがなかった。それが見事だった」というのです。    

 そういえば、雪印は今の社名となった年後の1955年にも、一昨年と同じ黄色ブドウ球菌による食中毒を起こし、東京の学校給食等で1300人を超す中毒者を出しています。その時の教訓が社内で忘れ去られていたところに、初回とは比較にならない大事故となったの事件の根本的な原因があったとも申せます。これで流石(さすが)に改良できたかと思っていたら、そこに今度は平成14年123日の「雪印食品牛肉偽装事件」の発覚とそれに続く数々の不祥事です。経営が行き詰まった同社は同年222日の取締役会後、月末をめどに会社を解散することを決めました。親会社の雪印乳業もすでに多くの工場を閉鎖するなど経営を縮小していましたが、さらに厳しい状況に追い込まれています。「貧(ひん)すれば貪(鈍・どん)する」といわれますが、苦しくなると、再起のため改良せねばならないのに、却って堕落し、さらに泥沼にってしまう姿に凡夫の悲しさが見えてしまいます。「初心」を忘れると、結局は罪と失敗を重ねて行くことになるのです。恐ろしいことだと存じます。

○「無始已来の御文」の心を大切に 
 この「初心」をご信心で申せば、「自身は元来罪障の深い凡夫であることの深い自覚」です。その自覚を深く持ち、それを終生忘れないからこそ、「至って未熟で罪障の深い私ですが」と「我
(が)」を捨てて、いつも謙虚で素直な心でいることができ、何年経っても慢心を起こすことなく、信行の改良と増進がさせていただけるのです。そしてこの心こそ『妙講一座』でいつも最初に、そして最後にも拝読申しあげる「無始已来謗法(ほうぼう)罪障消滅、今身(こんじん)より仏身に至(いたる)まで持奉(たもちたてまつ)る」の「無始已来の御文」の心にそのまま通じる心なのです。 

佛立開導日扇聖人は御指南にせです。
「御利益は初心に限る。清風も初心こそ御師匠なれ。」
(末代幼稚の中の四類等の事・扇全14頁)
「御利益はいつも初心にあり。これはなく一途に経力にすがるが故也。」
(講場必携 
坤(こん)・扇全14247頁) 

 先の御指南はご遷化の前年、明治2218日付で聖人73歳の時の、また後の御指南はその翌年、まさしくご遷化の年の月のお言葉です。「清風も此初心こそ御師匠なれ」と仰せですから、ご信者を戒められると同時に、他ならぬ聖人ご自身も生涯この「初心」を自己の師表(しひょう)とされたことが拝察できるのです。 
  
  どうかお役中は、お役中なればこそなおのこと、いくつになろうと、何年信歴があろうと、またお役を重ねようと、「罪障の深い未熟な凡夫の自覚」たる「初心」を忘れず、慢心を戒め、素直な心で信心の改良を期させていただきましょう。それこそがご
利生(りしょう)感得と、ご弘通の、そして法燈相続や育成の基(もとい)であり、ベテラン、初心者を問わずお役を全うさせていただく基本の心得なのですから。

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