―「あとつぎづくり」と「信教の自由」―


〇法燈相続と「あとつぎづくり」


 前回と前々回の二回にわたって「稽古の大切さ」のテーマで、稽古の基本的な意味を踏まえつつ、これに「シミュレーション」や「イメージトレーニング」の観点を意識的に付加した把え方や、その観点から稽古の活用の具体例として「ご披露」の実際的なあり方等について申しあげました。

 

今月のテーマは「法燈相続」ですが、これも大変大きな問題です。各寺院でも、ご信者方もいろいろと随分工夫や努力をなさっていることですし、沢山の問題点もあるわけですから、その全般についてここで触れることなど、到底できることではありません。そこでここでは極く基本的な理解のための概説と、「あとつぎづくり」という観点、それに「信教の自由」と法燈相続との関係についてのみ記したいと存じます。
 

まずはじめに「法燈相続」の語義ですが、これは狭義では親から子へ、子から孫へと信心を伝え、受け継いでいく意ですが、元来の意味は「ご信心の燈(ともしび)を他に伝える」意ですから、「信心相続」ともほぼ同義ですし、広義ではいわゆる「教化」とも重なります。つまり、必ずしも親子等の血縁者間に限られるものではなく、師弟や教化親子等全く血のつながりのない者同志の間でも使用可能な用語です。

   また「させる側」と「受ける側」、いわゆる能動と受動との双方で、同じ法燈相続でも観点は異なってきます。

 

 そこで、そんなことも踏まえつつ、また一方では「お役の相続」も含む、いわば「あとつぎづくり」とでもいうべきやや広い観点からも考えてみたいと存じます。お役中であるご信者にとっては、子弟への信心相続と並んでお役の後継者を養成していくということも大切なご奉公だからです。

 

  個人にとっても、組織にとっても、それが保有する有形・無形のもの(物質的・精神的に価値のあるもの)を継続して伝え、確固たるものとして存続せしめていくことは極めて大切なことです。これを信心の世界でいえば、それなくしては正法を後世に伝えることができず、そうなれば妙法弘通による衆生救済も不可能になってしまいます。もちろん組織も存続できません。「あとつぎづくり」の大切さはまさしくそこにあるわけです。自身にとって一番大切な御法を他の人にも伝え信ぜしめ、そのことによってその人も真の幸せへ導き、さらに佛立信心が伝えられて、後々まで多くの人を利益することができるように努める、これほど大切なことはないわけです。

 
今年(平成15年)は5月11日が第2日曜で「母の日」、6月15日が「父の日」です。この5月11日の新聞(毎日・朝刊・「女の気持」)に「母の日」にという題で、島根県出雲市在住の加藤澄子(50)さんの寄稿文が紹介されていました。

「15年前の母の日、朝目覚めると枕元に『お母さんありがとう』のメッセージと一緒に造花のカーネーションが置いてあった。(中略)台所に下りると、テーブルの上に私が収集している500円のテレホンカードが、これも造花のカーネーションと添えて置いてあった。
 娘が大学四年になった昨年の母の日も娘の好きなキャラクターの付いたキーホルダーをくれた。

 その娘も、今年彼女の念願だった中学校の美術の講師に採用され、家族一同喜びにわいた。

 しかし、忙しくて福岡にいる娘のところに行ってやれない母親としては、それはそれで心配も増える。仕事をしながら思い出した用を、連日、娘に電話したものだから、ついに娘が怒り出した。

  『お母さん、私ももう23歳になったんだよ。子供じゃあるまいし毎日毎日わかったことを電話しないでよ』。私は脱力感におそわれて沈んでしまった。

   だが待てよ。翌朝私は考え直した。ここはひとつ大人になって、子供の自立宣言を喜ぼう、今年の母の日にたとえ何も送ってこなくても、娘が自立したことこそ、母である私への最大のプレゼントだ、と。

 子供の幸せが、親である私の最高の幸せなのだから」

   簡潔で、雰囲気までよく伝わってきて、読んでいてつい口もとがほころびそうになりました。いつの世にも、子の幸せを願わぬ親はないということは、こんな平和な短い文章からも理解できます。

   特別な例外は別として、子を愛さない親はありません。ただその愛情表現となると様々です。


  ○信心を伝えることこそ最高の愛情表現

 身内を愛する愛し方、愛情表現にもいろいろあります。

  例えば親子の間、特に親から子に対するあり方としては、

①まずとにかく子供の望むようにしてやる。今現在の喜ぶ姿を大切にし、欲しがる物は与え、極力叱らないようにして、不自由のないように育てる。

②将来にわたって少しでも豊かな生活ができるよう財産を残してやる。

③豊かで安定した生活を確保できるよう、教育をうけさせ、資格や手に職がつくように努める。

   まずはこういったことが一般的な親の子に対する愛情表現でしょう。


 ①はいわゆる「猫可愛がり」「甘やかし」ですから、最も低劣な愛情表現で、愛するといいながら、実際には社会に出て一人で生きねばならなくなったときには、本人が自立して生き抜いていく力を育て、鍛えることをしていないのですから、最も拙い愛情表現だと言わざるをえません。


 ②や③は普通の親が通常考えることで、いわばもっともなことです。財産を残してやることもそれ自体は悪いことではありませんし、教育、資格等のための努力も大切です。できる範囲で努力してやればいいと存じます。要は子を鍛え、能力を身につけ、できれば資力を与えておくことは、それ自体、親としての立派な愛情表現に違いないのですから。ただ、ではそれだけで十分で、それ以上のことはもう何もできないかというとそうではありません。世の中には、本人にも周囲の者にもどうしようもないことが無数にある。病気や怪我、不慮の災難もあれば、犯罪、景気や経済の動行、はては戦争もあります。体や心を鍛え、教育や資格を身につけ、資産を持っていても、それでも必ず幸せでいられるとは限りません。ましてや親がいつまでも傍(かたわ)らにいて見守ってやることは不可能なのです。それに未来・来世のことはどうなのでしょう。そんなことを考えると、世の親の常識としてできるだけのことをしてやるだけでなく、佛立信者なら、もう一つ世間の親のできないことをしてやれる。それがこのご信心をしっかりと伝えてやることなのです。


 大切な、最愛の子供や家族の行く末の幸せを本当に考えるのなら、その子がどこで暮らし、どんな人と出会い、どんな状況になったとしても、そして仮にお金もなく、病気になったとしても、どんな事態に陥(おちい)ったとしても、最後のところはこの御題目を杖とも柱とも頼んで立ちあがり、御法のご守護をいただいて生き抜いていく。そして臨終を迎えた後の来世までも幸せを約束される。そんなことができるのはこのご信心しかないのですから、そう思えば、何をさて置いてもこの信心を伝え、相続させることこそ何にも優(まさ)る最高の愛情表現であるはずです。


 先の母親・加藤さんは実に立派なお母さんです。中々彼女のような親にもなり難いのが実際です。娘さんもきっと優しく親思いのいい娘さんなのだと思います。そして確かに、大学を出て念願の立派な職を得、親から遠く離れて自活を始め、自立しようとしている娘さんも、その娘さんの姿を「娘が自立したことこそ、母である私への最大のプレゼント」で、「今年の母の日にたとえ何も送ってこなくても」いいのだ、という受けとめ方も見事だと存じます(きっと娘さんは忘れずに何か送ってきたに違いないと思いますが)。でも佛立宗のご信者なら、もう一つ違った観点があるはずだと存じます。「何もプレゼントなどなくてもいい。優しい言葉もなくてもいい。社会的に自立してくれているのも有難い。それに何といってもこのご信心を相続してくれている。これほど親としてうれしく、安心なことはない。ご信心の相続ほど親として有難く、最高の幸せはないのだから」と、こんなふうに心から思うことができたら、と存じます。


「父の日」は6月15日だということは先に申しました。「父の日」は「母の日」にくらべればどうも影がうすいようで、プレゼントを貰えない父親も結構多いのではないかと存じますが、負け惜しみ半分でも「お父さんは何も貰わなくても十分幸せだよ。何といっても子であるお前がこのご信心を頂いて、信者になってくれているからね。これこそお父さんにとって最高のプレゼントだよ」などと言ってやることができたらどうでしょう。口に出して言う言わないは別として、親が真実そんな心でいることが大切だと存じます。そういう心でいれば、それは平生の親の生活態度の中で折にふれて自然に姿形に表れてきて、それがまた自然に子や周囲にも伝わっていくからです。

 

 解剖学者の養老孟司(ようろうたけし)氏は次のように言っています。

  「要は子どものことをいうなら、まず大人が自らを省みよ、ということである。教育基本法の最初にそう書けばいい。古来、子どもは大人を見習うものに決まっている。孟母三遷(もうぼさんせん)という故事や、ミラー・ニューロンという新発見を引くまでもあるまい。ミラー・ニューロンとは、他人のしていることを見ているだけで活性化し、その真似をするとさらに活性化するニューロンなのである」

(平成13年12月2日毎日新聞「時代の風」)

 ニューロンは神経細胞のことで、ミラー・ニューロンは直訳すれば「鏡神経細胞」です。近年の研究によって発見された人間の脳の中にある神経細胞の一種で、目に映った他人の行動などを鏡のように自分の脳の中に写しとる能力をもっており、同じことを真似して行うとさらに活性化し、自己のものとしていくもののようです。

「子は親の背を見て育つ」「子は親の鏡だ」と申しますが、実際に脳の中にそういう神経細胞が存在することが発見され、科学的にも認められたというわけです。大人の、親の信心前や平生の生活態度が、法燈相続にとってもいかに大切かということを改めて教えられたような気がいたします。

  開導聖人の御指南・御教歌をいただいておきます。

 御指南

  ○「わが手元の折伏教化大事肝要也。今此(この)講内の家内皆々大信者になるならば、よほど大勢の弘通となる也。」

  (青柳厨子法門抄13・扇全3巻136頁)

○「吾子(わがこ)といへども三界の衆生也。他人一人教化のなりがたきを思へば、せめて我子になりとも信心をつたへ、一生いたづらにせぬようと思ひとりてこそ、如才(じょさい)のなき弟子旦那の心得とも云べき也、と聞て大(おおい)に感伏(かんぷく・[服])せしと云々。」

  (隆師年譜上・扇全1巻296頁)

○「わが信心を思ひさだめて妻子眷属(けんぞく)に及ぼすべし。」

  (一向令唱題目抄・扇全7巻277頁)


御教歌


○妻や子に信心をさへゆづりおかば

     たからをのこし置(おく)といふもの

○わが子には現世大事と教へたり

   未来かまはぬ親のくせとて

 
○御題・露の命の日かげ待(まつ)間

申置事(もうしおくこと)更(さら)になし

信心を 相続しやれ下種の大法

 

 

わが子に、家族に、周囲の人びとに佛立信心を相続せしめること、そしてお役中としての後継者を育てること、そのいずれにも、真の愛情(慈悲)と自身の信心前を高める努力や、平生のありようが大切なのです。
 間違っても、親が現世大事(世法のこと、暮らし向きのことが信心よりも大切だという考え方)だと、平生の自身の姿や言動で、自然に教えてしまうようなことのないようにしたいものです。

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