○お寺参詣・御講参詣の大切さを知る

 
  前回は、初心(罪障の深い凡夫であることの自覚)を忘れず、「無始已来の御文」の心を大切にすることによって
、懈怠(けだい)なく精進(しょうじん)し続けることが、お役中の大切な心得であることを申しあげました。
 今月は、当宗のご信者の信行の根幹のつである「参詣」の大切さについてです。
 
まず最初に開導日扇聖人の御指南をいくつか頂戴いたします。
①「講内面々わすれてならぬことそれ(この)御講席とは弘通広宣の道場、大恩報謝如説修行随力演説(ずいりきえんぜつ)の処(ところ)也。大功徳を得る宝の山これ也。現世安穏後生善処(げんぜあんのんごしょうぜんしょ)の根本の処也。霊山浄(りょうぜんじょう)山((ど)にもおとらず娑婆即寂光(しゃばそくじゃっこう)即此処也。されば此御経(このおんきょう)(たもた)ん人々はせめて人身(にんしん)を得(え)(この)大法にあひ奉りし御報恩の一分なりとおもひて、御講出席一席もかゝし給ふことなかれ。人一人(ひといちにん)も得(え)教化(きょうけ)せぬ分斉(ぶんざい)の身の如説修行とは御講参詣のことなり。家業ある身なればいかにも(くり)あはせて参詣するを大恩報謝の一分(いちぶん)と思(おぼ)しめせ。悪業(あくごう)のさはりにて参詣ものうくおもふ時あらば、心に魔のいりてわが信心をさまたぐると思ひ、つとめておして参り給ふべし。」
②「不参なれば法門を(きか)ず。きかざれば信心ゆるみ(ゆく)。ゆるむ故にますます不参。不参故に不都合。不都合故にいよいよ不参して(つい)に退転堕獄(たいてんだごく)するもの也。その時御法をうらむ事なかれ。(かね)て以て此事を申しおくもの也。」(当講の忘れてならぬ事(①②共)扇全186頁)
③「御法門心得違(こころえちがい)せる人の曰遠き所を日参は無益の事也。我家に本尊あり道場と(いう)、家内にありと云々。 道場に能所(のうじょ)ある事を知らず。寺は諸人参詣の道場、面々の家の本尊は[乃至]其業(そのなりわい)あれば本尊は内に(かく)れて家内のみの本尊、世間に事相(じそう)人知らず。 寺は門前を通る者も礼を(な)して行ものある事相表立(じそうおもてだち)たる弘通所也。[乃至]又凡夫歴縁対境(りゃくえんたいきょう)るに持仏堂(じぶつどう)の口唱と本堂高祖御宝前の口唱と、心持(こころもち)自然(じねん)に差別(しゃべち)を顕(あらわ)す。[乃至]これ寺と在家と能所ある一箇(いっか)の御法門也。」(「歴縁対境」……天台・妙楽の釈にあり)能所不二(のうじょふに)の上に而二(にに)なりの事・扇全17338頁)
④「問云わざわざ参詣に及ばぬか。尓也即是道場(しかなりそくぜどうじょう)也。されど家にありては心の散事(ちること)し。又、歴縁対境紛動(りゃくえんたいきょうふんどう)す。凡夫の向ひ奉る所、必ず其(その)向ひ奉る境によりて信の起る故に、参詣には利あり。」(三界遊戯抄一・扇全333頁)
 御指南の引用が少々長くなってしまいましたが、①と②は同じ御指南の前後で、いずれも御講参詣の大事を示されたもの。③と④はお寺と自宅、お寺・御講席と自宅等の参詣の違いについて示された御指南です。  お寺や御講席は「信行錬磨の道場」であり、「ご弘通の道場」ですから、とにかくまずその場に参詣をさせていただくことが佛立信徒たる者の信行の根本です。そしてこの道場の「参詣」を通じて口唱も、御法門聴聞も、先祖等のご回向も、布施・有志も、仏祖への大恩報謝もすべてがさせていただけるわけで、いいかえれば参詣の中に当宗信行のすべてがこもっており、そこから教化も育成も、法燈相続も進められていくわけです。
①の御指南の中に「それ此御講席とは弘通広宣の道場[乃至]大功徳を得る宝の山これ也。」と仰せなのは正しくそこのことを端的に示されているのです。何といっても「道場」なのですから、実際にその場に身を置かなくては話になりません。それは世間で子供が学校へ通学するのにも似ています。「一人で家で本を読んでも勉強できるのに、学校に通う必要などない。通学の時間や費用が無駄だ」などというのは理屈であって、実際にはそうはまいりません。やはりめんどうなようでも学校へ通い、他の生徒と一緒になって、先生の授業を通して勉強することが大切であることは、自身の経験からも誰もが分かっていることだと存じます。信行の錬磨もその点は同じなのです。このことについて示されたのが、③と④の御指南です。
  「能所(のうじょ)」というのは「能」は「能(よ)く……す」「所」は「……せ(ら)る」と漢文で訓(よ)みますね、基本的に「能動(のうどう)」と「受動(じゅどう)」の関係を示す語です。「道場の能所」となると、同じ道場でもお寺が本(もと)で、個人の御宝前の間は(すえ)という関係を示します。法華経如来神力品に「即是道場(そくぜどうじょう)」とあるように、僧坊であろうと在家のご信者の家であろうと、御本尊が奉安してあり、お看経ができるという意味では「道場」であることには変わりがないけれど、その道場にも本と末、能所がある。また他から見ても、個人宅の御宝前の間は家の外からは全くそれと見えないのに対し、お寺は誰でも外見からしてお寺だとわかる、つまり事相(実際にそれと見える姿や形)が違う。また人間は環境や縁の影響を受け易いもので、お寺の本堂や御講席に身を置くか、自分だけの自宅の御宝前かでは、自然に心持が異なってくる。そうしたことからもお寺や御講席に参詣することは大切なのだ、というわけです。


○新入信徒や宗外者に参詣を勧めるに際して
の心得・必要性を感じてない人もいる

 近刊の『宗教を知る 人間を知る』[講談社・本年(平成14年)月刊]という本があります。これは河合隼雄、加賀乙彦(おとひこ)、山折哲雄、合庭 惇(あつし)の四氏の共著になるもので、「宗教入門の本として、高校生、大学生、学校の先生、お父さん、お母さんに読んでもらいたくて企画」されたものです。その序章は「 “宗教は無関係”という人たちへ」、第章は「人にとって宗教はなぜ必要か」。第章は河合氏の担当で、次のように記しています。
<「宗教はなぜ必要か」といった問題提起がされること自体、日本人の宗教観の特殊性がよく現れています。ほかの国では、このようなことはことさら問題にするまでもなく、みんなが必要に決まっていると思っているからです。(中略) つまり、世界全体の中で、日本人は宗教というものに関してじつに特殊な感覚と受けとめ方をしている民族なのです。このことを、私たちはまずもってよく認識しておかなくはならないでしょう>(同書41頁)
<宗教を信じている人の側からすれば、なにも死を説明するために宗教をやっているわけではありません。その人たちは超越存在というものを感じ、あたり前のこととして受け入れていますから、私の説明の順序とは逆に、超越存在からいろいろなことが説明されていきます。(中略)その集団の中では、誰もが超越者が言ったとされる言葉を信じ、その言葉に従って生きています。宗教集団での生存とか生活に伴うもろもろの行為は、超越者の存在、その言葉などすべてを信じるということが前提になっています。(中略)そこでの「信じる」は、知的に信じるのとはまったく違います。(中略)そういうことのすべてが納得したこととして身体の中に入っているのです。(中略)これは仏教の場合でも同じで(中略)身体で納得するというのは、「これはこうなっているから、こうである」というような理屈、客観的説明とは違います。そして人間というものが生きていくためには、そういうこともとても大事ではないかと思います。>(同書50頁以下)   河合氏の言葉をもう少し当宗に即して、また新入の信者さんや結縁(けちえん)の方をお寺や御講席へと参詣奨(将)引する際のことを念頭に置きながらいえば次のようなことになるかと存じます。
特に悩みや願いごとがあって、自分から参詣したいと思う人は別として、通常は進んで参詣しようとする人は、信心の身に付いた人以外には少なくて、「なぜ参詣しなければいけないのか。必要性を感じない」と思っている人や、それに近い感覚の人が多いということをまず知っておくことが大切です。また、役中さん等からの説明は(既に信心を持っている方ですから)、み仏・御宝前を信じ、み教えを信じ、受け入れた立場からの説明になっているけれども、相手はまだ信じ受け入れてない人ですから、そのままでは中々理解してもらえず、したがって参詣する気になりにくいのです。
、「信心」はまず心の問題で、頭や心で理解することが先決だと思っていることが多いのです。けれども「信行」という言葉があるように、当宗の信心は、やはりすぐれて身体的なもので、実際にお寺なり御講席なりの場に体を置き、実際に口唱をさせていただく、体を使ったご奉公をさせていただくことを通じて初めて納得・得心がいく、つまり身体的に「(ふ)に落ちる」ものなのです。これは実は何も信仰に限らない、人間がまともに生活していく上で、極めて大切なあり方ではないでしょうか、ということです。
 当宗がまず「参詣」という身体行動を重視するのは、 “信行の身体性”というものを大切にしているからに他なりません。お役中は、右のようなことを理解した上で、例えば「説明はできる限りのことはまたさせていただきますが、何はともあれ、むずかしく考えず、とにかく一度実際にお参りしてみませんか」といった感じで参詣を勧めることも大切なのです。

○「つながり」を大切にし、活かそう
―人と人、人と環境、体と心、仏と人―


 信行においては「身体と心」「環境と人」との関係が大切だということは前述の通りですが、これをもう少し角度をかえて、「つながり」という観点からみてみましょう。
 鎌田 (みのる)という諏訪(すわ)中央病院院長で、長く地域全体に対する医療を独自の立場で続け、大きな実績をあげてきた方が、次のように仰っています。「命はつのつながりのなかで守られている  という話しもしばしばします。
つめは   人と人のつながり、
つめは   人と自然のつながり、
つめは   からだと心のつながりです。
いまの時代は、その三つともとても危うい状況にあります。」 [岩波新書723 飯島裕一編著『健康ブームを問う』17頁。昨年(平成13年)月刊] 人間はただ独りで生きているのではなく、人の「いのち」は他の人とのつながりや、自然等の環境(光、緑、空気、水等々)や、身体と心や、そういった「つながり」の中でこそ生かされているのだが、現代はそれをおろそかにしていて、大変危うい、と警告しているのです。 言われてみれば全くその通りですね。これを当宗のご信心でいえば次のようにいえるのではないかと存じます。
①人と人のつながり―家族、ご信者同士、組長・役中との関係、御講師との関係。
②人と環境―家庭、お寺、御講席のふんい気。町内の人々とのありよう。
③体と心―心・信心を根としたあり方。反対に先にも触れたように身体から入って納得する、腑に落ちるという、いわゆ事相(じそう・外的な姿形)を大切にするあり方も大切。
④み仏(御題目)と人―これはご信者だからいえることで、御宝前、お祖師さまとのつながり、(きずな)です。 「参詣」という信行ご奉公を考えていけば①から④のすべてが関わってくるかと存じます。家族はもとより、町内の宗外者との関係も大切でしょうし、ご信者同士や役中さんとご信者とのありようや、御講師との関係も影響は大きいと存じます。また参詣したお寺や御講席の環境的なふんい気も極めて大切です。そうした場に参詣した人は、現実にその環境に身を置きつつ、信心を一人ひとりが感得していくわけです。「参詣」の大切さと、「参詣」に導くまでの大変さ、そして「道場」のありようの大切さに思いを致し、お役中は、「身体性」や「つながり」を大切にするよう努力させていただくことが大事だと思うのです。そういう意味での教務のありようもほんとうに大切ですね。