―「そしるにさへや香(か)にうつるらん」―

 

○「逆縁」と「順縁」

 

前回は「自覚の宗教と啓示の宗教」―仏性の開顕…妙法こそ「マスターキー」―のテーマで、仏教は「自覚の宗教」であり、特に法華経は、閉ざされているすべての凡夫(ぼんぶ)の心を開き、眠っていた仏性(成仏の素質)を覚醒せしめ、凡夫にその自覚を促そうとするみ仏のご本意が示されたものであり、上行所伝の御題目こそが末法のすべての凡夫の心の中の仏性を開顕せしめるいわば「マスターキー」であること、その開く方法は妙法への帰依であり、妙法の受持(じゅじ)信唱であることを法華経の御文や、日蓮大士(だいじ)の御妙判に基づきつつ、また染織家・志村ふくみさんの媒染(ばいせん)に関する文章なども援用させていただきながら説明申しあげました。そして次のように記しました。

 

「同じく媒染を受け、あるいは帰依(きえ)するなら、私たちにとって最高のものをいただかねばなりません。それが末法の凡夫にとっては上行所伝の御題目なのです。

 信仰の本質はまさしく帰依・帰命(きみょう)することに他なりません。最高の御本尊・み仏のたましいたる御題目に帰依し、すべてを捧げることです。〈中略〉

 妙法に帰依し、受持信唱させていただくのは、一見すると自分の外の存在に向かっているようですが、実はそうではないのです。外なる妙法(御本尊)に帰依し口唱することが、実はそのまま自分の内なる妙法(仏性)を呼び顕わす(開き、啓発する)ことに他ならないのです。〈中略〉最高の御本尊(妙法)に帰依し妙法を口唱することによって、実はお互いの内に秘めた最高の素質(妙法・仏性)を開き、啓発させていただくのですから」

 

「帰依」ということが、自己の「外なるもの」に向かうものでありながら、実は自己の「内なるもの」を啓発するものだということは、日蓮大士が『法華初心成仏抄』の中に譬(たとえ)として挙げられた「籠(かご)の内と外とで鳥が鳴き交わす」例でもよくわかるのですが、これはもっと一般的にも申せることです。

 

どういうことかと申しますと、例えば名画や名曲などの芸術作品や自然の草花の風情に触れて心を打たれ、深く感動したとします。もちろん他の人物でもかまいません。いずれも「自己の外なるもの」、「外界の対象」によって、「自己の内なるもの」が感応したわけですね。ではこの感応する「内なるもの」はどこから来たのでしょう。外から、相手から与えられたのでしょうか。そうではないはずです。

 

それは媒染も同様です。煮汁等で染めた糸や布の色が媒染で発色し、別の色が現れるのだって、元の布や糸に媒染に反応し、触発されるものが何もなければ、いくら媒染しても新たな色が発色することはないのですから。

外界の存在が私たちの感覚器官を通して認識されるには違いないのですが、でもそれだけで感動するものではありません。すべてに同じように感動するわけではないのですから。

 

何かに特に心をゆさぶられ、深く感動するというのは、よく考えてみれば、例えば「ああ、何て美しい!」「何て素晴らしい!」と感応し、触発され、感じ取るものが私たちの側にもなければならないはずです。ある日何かを見たとき、思いがけず突然心が奪われるような、心がふるえるような感動をした、というとき、それは自分でも意識していなかった内なる何かが、外からの刺激や働きかけに触発され、感応して引き出されたのです。仏教で「感応道交(かんのうどうきょう)」と申しますが、その基本的なあり方は同じだと存じます。み仏のたましいと凡夫の仏性とが感応するわけです。

 

もともと私たちの心に何もなければ、外界の美に感応することもないはずです。世間でも「どうせ何かを見るなら、本物の最高の物を見なさい」というのも当然だと存じます。私たち凡夫の心には「十界」というように、地獄の心から仏の心まであるのですから、変なもの、劣悪なものに触れ、うっかりそれらと感応して触発されれば、当然内なる劣悪なものが開かれ、引き出されてしまうのですから。前回の「鳥が内外で鳴き交わす」譬えの解説の際、「メジロにはメジロ、ウグイスにはウグイスが」と私の経験もまじえて記した理由はここにあります。

 

久遠のみ仏のたましいである最高の御本尊(妙法)に帰依してこそ、私たち凡夫の心のうちにある最高の仏性(妙法)が感応し、触発し、啓発されるのです。それが誤って間違ったものに帰依したらどうなるのでしょう。悪人を崇拝すればその当人も悪人になる道理です。「帰依の対象は最高のものでなければならない」というのはそういうことです。同じく帰依をするのなら、自分を最も高めてくれるものに帰依したいものです。

 

さて今回は「逆縁正意と逆即是順」というテーマです。

 

仏法は「縁起(えんぎ)[因縁生起(いんねんしょうき)]の法」だとも申します。すべての存在も現象もこの縁起の理法に貫かれているわけです。この「縁」を仏法に対するあり方でいえば「順逆二縁(じゅんぎゃくにえん)」があります。宇井『仏教辞典』でみると、まず「順縁」とは「よきできごとが仏道に入る因縁となること」とあり、「逆縁」とは「仏に抗し、法を謗(そし)る等の違逆(いぎゃく)の事が、却(かえ)って仏・菩薩の化益(けやく)を受け、道に入る因縁となること」と記されています。これは順逆の「縁」それ自体を説明したものですが、当宗では「縁」それ自体を指す場合と、「そういう縁を有する人」を指す場合との両方の意で用います。したがって、御題目との関係で「順縁」といえば「最初から素直に御題目を信じ、随順して入信できるご縁。そうしたご縁を有する人」を指し、「逆縁」は「なぜか御題目に反抗・敵対し、妙法を謗る縁。しかしその縁がもととなって却って入信するご縁。またそういうご縁の人」ということになります。そして末法現代に生まれてくる私共は原則としてすべてが妙法に対して「逆縁」の凡夫だとされるのです。

 

○末法は「逆縁正意」

        ―妙法は逆縁救済の法 

 

 なぜ末法の衆生は「逆縁」なのかと申しますと、み仏の教えによれば、末法に生まれ合わせてくる衆生は皆、み仏のご在世はもとより、過去久遠以来(無始已来)無数の生死を繰り返す間、一度も妙法を信じ唱えたことのない[これを「本未有善(ほんみうぜん)」―本(もと)未(いま)だ善(ぜん)有(あ)らず―と申します]衆生ばかりだからだとされます。私たちが常に「無始已来謗法罪障消滅」と、今日までの妙法逆謗の罪を懺悔(さんげ)言上申しあげるのは、このことを踏まえているわけです。このことを頭で理解するのは困難なことですが、現実に私たちは仮りに信者であっても、やはり我[我執(がしゅう)]が強く、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(痴・ぐち)の三毒(さんどく)が強盛(ごうじょう)で、そのため互いに争い、苦しんでいます。そのことを思っただけでも「逆縁」「違逆」の衆生であり凡夫であるということはわかるはずです。三毒は「貪(むさぼ)り」「いかり」「愚か」ということですが、その根本には深い愚かさがあります。

 

念のため申しておきますが、仏教でいう「愚癡」というのは世間でいう「グチ」とは大分意味が違います。「愚癡」とは「み仏の説く因果の道理に従った判断と行動ができないこと」です。「因果の道理」とは「こうすればこうなる」という因果関係ですが、み仏の教えは過去・現在・未来の三世に通達(つうだつ)し、これを見そなわされての因果の道理で、単に目前のものではありません。実にすべてを踏まえての道理であって、目先の欲に目がくもった凡夫の判断や見方とは異なります。それだけに、凡夫はみ仏の教えを素直に頂戴できにくいということもあります。こうした因果の道理が「理解できない」、あるいは「理解できたとしてもその教えに従った行動ができない」で、結果苦しむことになる。これが「愚癡」ということです。

 

 けれどもこのように我執が強く、愚かな末法の私共「逆縁の衆生」をこそ救おうとされるのがみ仏の慈悲であり、そのために法華経を説かれ、その本門八品で御題目を示され、「末法の衆生を救済せよ」と上行菩薩にその御題目をお授けになられたのです。そういう意味で上行所伝の妙法は、特に「逆縁」の衆生を救済することをこそ本意・目的としているのであって、これを「逆縁正意(ぎゃくえんしょうい)」と申します。

 

 この「逆縁正意」に関してもう少し説明しますと、まず第一に、「末法の衆生はおしなべて逆縁の衆生」なのですから、宗外者はもとより信者たる自分も基本的にそうなのだということを自覚しなければなりません。

 

第二に、宗外者はもとより、他のご信者も、妙法に反抗し、素直に従わないのも当然だと覚悟して、そうした逆縁・逆謗の縁によって却って妙法とのご縁を結び、深めることによって正信に導かれるのだと受けとめ、そのご縁を大切にすることが大事だということにもなります。

 

第三に、これを一歩進めると、仏祖のご本意を体認すれば、むしろこちらから他の人に御題目をお勧めする。そうすれば当然相手は反発するけれども、そのようにして逆縁を喚起・激発せしめる[これを「毒鼓(どっく)の縁」とも申します]ことにより、それを縁として教化に導くという姿勢になります。菩薩・如来使としての「逆化(ぎゃっけ)」(違逆・敵対せしめることを通じての教化の意。仏・菩薩が衆生を教化するに、却って誹謗し敵対せしめて化益を成ずるをいう「宇井・仏教辞典」)折伏のご奉公です。

 

開導聖人は仰せです。

 

 御教歌 題・逆縁正意

①さかさまに結ぶゑにしも法(のり)の花

   そしるにさへや香(か)にうつるらん

(三界遊戯抄一・扇全6巻346頁)

 

②さかさまに結ぶ縁(えに)しも道たえぬ

   せむるこゝろのおとろへしより

(信心に活[かつ]を入れるの事・扇全18巻355頁)

 

③折伏の慈悲のめぐみをさかさまに

   いかりにくむも縁(えに)し也けり

(開化要談(教)・扇全14巻32頁)

 

 御指南

「謗法人を見るたびに、顔にむかい一辺なりとも、御題目を唱へて御縁をむすばせてやりたき事、これ大慈大悲なり」

(釈迦御一代記実録・扇全2巻313頁)

 

「さかさまに結ぶ縁[えにし]」とはまさしく「逆縁」のことであり、「法の花」は「妙法・御題目」のこと、「そしる」は「誹謗(ひぼう)」のことです。妙法を謗る逆縁もその縁に結ばれることによって妙法の感化を受けるのだから、逆縁正意、逆化折伏のご奉公を大切にせよ、というのが①の御教歌で、そうした逆縁を結ぶご奉公ができなくなったというのは、慈悲の折伏の思いが衰えたからだ、そんなことでどうするのだ、と活を入れられたのが②の御教歌です。

 

 御指南の方は、宗外の謗法の人(当然逆縁の人)に対しては、顔を見る度ごとに、せめて一辺でも御題目をお唱えして耳に聞かせてやりなさい。御題目の音声(おんじょう)自体[法体(ほったい)]に逆化折伏の経力があり(これを「法体(ほったい)の折伏」という)、逆縁を結ぶことができるのだから、との意です。

 

○蓮の花の香りが移る

   ―ベトナム王宮秘伝「ハスの花茶」

 

「香りが移る」「色が移る」ということは諺(ことわざ)その他でもよく言われますし、私どもの日常生活の中でも折にふれて経験することですが、先日偶々(たまたま)テレビを見ていて「ハスの花茶」なるものがあることを初めて知りました。

 それは8月1日夜10時から放映された「世界ウルルン滞在記」(毎日テレビ)。以前、NHKの「朝の連続テレビ小説」『こころ』のヒロイン役をつとめた女優・中越典子さんが、ベトナムに滞在し、ベトナム王宮に秘伝として伝わっていた「ハスの花茶」を伝承者の婦人に学び、一緒に作る一部始終でした。

 

 西湖という古く大きな湖があり、そこには昔から香りのいいハスの花(蓮華)が季節になると沢山咲くのです。「ハスの花茶」というのは、このハスの花の優雅な香りを移したお茶のことです。作り方は、まず早朝、小さな舟を出してハスの中をこぎ回り、咲く直前のつぼみを約1000個ほど集めます。その花のオシベが香りのもとなので、ハチの巣のようなメシベの周囲にあるオシベの先端部分[葯(やく)]だけを集めます。1000個の花からでもほんの少量しか集まらないのですが、それを器の中で1.5キロのお茶と交互に重ねて1日置き、翌日フルイにかけてオシベだけ取り除き、そのお茶を匂いだけは残して茶葉は乾燥させる特別な方法で1日置きます。同じことを続けて3回行いますから、最低でも六日間かけて香りをお茶に移すのです。出来上がったお茶の外見は普通の茶葉と全く変わらないのですが、このハス茶にお湯を注ぐと、その時えもいわれぬハスの花の上品で優雅な香りが馥郁(ふくいく)として立ち昇るのです。大変な手間をかけ、6日間でやっと1.5キロの品しかできず、しかも季節も限られているのですから、これは実に貴重なものだと存じます。一度でいいから飲んでみたいと存じます。

 

 それはともかく、御題目(妙法)の香りもいわば蓮華の香り、最高の香りで、これは私たち凡夫の心に移るのです。そして移そうと思えば、毎日でも、いつでも、何度でも移せるのです。開導聖人は先の御指南で「一辺なりとも」と仰せでしたが、繰り返せば繰り返すほど濃く、深い香りが移り、染まっていくのだと存じます。しかも、単なる茶葉と違って、私たち凡夫の心にはそれ自体にまだ開いていない蓮華(妙法・仏性)があって、外からの触発・媒染を待っているのです。蓮華で蓮華を開くのですから、これ以上の香りはないでしょう。たとえ最初は反発したとしても、ついにはそのように香り立ちたいものだと存じます。

 「逆即是順」については次回で記します。