今年もフクシャが咲きました。
2015年8月22日(土)
 

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裏庭のフクシャ(インド系のジンジャーの仲間)が、今年も咲きました。年々、株が大きくなっています。匂いはいいのですが、花持ちが悪くて、切り花には向きません。(J・M)

 

 

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 今年も輪王蓮 (白。古代蓮系。小型)が、咲きました。今日は長崎の原爆忌だし、間もなくお盆だし。喫茶室の外のビオトープで。蚊取り線香がわりの黒メダカも健在です。(J・M)

 

―仏性の開顕…妙法こそ「マスターキー」―

 

○「自覚の宗教」と「啓示の宗教」

 

前回まで3回にわたって「謗法を戒める…信仰の純正化」のテーマで記しました。

 その(1)では「根本謗法」である「妙法不信」の意味内容について説明し、その(2)では「謗法の態様」についての略説を、そして(3)では「謗法を戒め信仰の純正化の努力をする」ことが誤って「原理主義」に陥らないよう、いわゆる「原理主義」との対比をまじえつつ説明いたしました。

 ただ、全体を通じて、具体的な謗法の個別的な説明にはあまり触れませんでした。

 

 その点はややご不満かと存じますが、個々の具体例となるとそれこそ無数にありますし、その程度等の問題もありますから、事例によってはいわば臨界線上のものもあろうかと存じ、これは具体的な状況に応じて、現場の御導師やお教務方にご相談いただき、そのご判断に従っていただいた方がいいのではないかと考えたのが、具体例にあまり触れなかった一番の理由です。

 

 中でも最も問題になり易いと思われるのは「習俗」「風習」との関係です。

 例えば「クリスマスツリー」や七夕の「笹飾り」、正月の「しめなわ」「門松」、節句の「ひな飾り」等は事相上でも問題となります。いずれも一般世間ではほぼ「習俗」化しており、特に「宗教」的なものとしては考えていないとも申せますが、厳密に申せばやはり、宗教的な意味を有しています。

「門松」は神道の神の「よりしろ」ですし、「しめなわ」「しめ飾り」もやはり神道のものです。クリスマスはもちろんキリスト教のものですし、「ひな流し」となればこれも「穢(けが)れを祓(はら)う」意味を持ちます。しかし、幼稚園でクリスマスツリーや笹飾りを作ったからといって目くじらを立てるのもどうかと思われますし、「ひな飾り」も「女の子の遊び」だと把(とら)えればムキになる程のことではないでしょう。

 

 けれども、門松やしめ飾りは、当宗の寺院はもとよりのこと、ご信者宅でもまず用いないはずですし、お寺でクリスマスツリーを飾ったり、クリスマスパーティーを開くことは決してありません。「ひな飾り」等でも、ご信者宅の御宝前のすぐ横に御宝前よりも立派で大きな飾り段を設けるのはどうかと思います。その他節分の行事の「豆まき」や大阪の風習の、一定の方角(恵方)を向いての「巻寿司の丸かぶり」、各地の祭礼、地蔵盆等もちろん問題になります。また観光や修学旅行等で神社仏閣へ立ち入ることについても幾分問題があります。

 

 開導聖人は、門祖日隆聖人の御修行参詣が25日の北野神社の縁日詣でと紛れぬよう、24日に御修行をお勤めになられましたし、かつては当宗のご信者は鳥居をくぐるのも忌避した程です。ただ、あくまでも私見ですが、修学旅行や観光で、他宗堂社を見るのは「文化財や美術品の見学」という観点からなら大目に見てもいいのではないかと思っています。もちろん、賽銭(さいせん)を投げたり、拝んだり、札守(ふだまも)りの類いを土産に買ったりするのは論外です。その他「相似の謗法」に類する具体例は多々あろうかと存じますし、世間的あるいは商売上のつきあい等でもいろいろな事例があろうかと存じます。各種の占いも謗法です。気になる点は所属の寺院の御導師やお教務にご相談いただくのが一番だと存じます。

 

 さて今回のテーマは「自覚の宗教」と「啓示の宗教」です。

 実は「宗教」の定義は大変難しく、「宗教学者の数だけある」ともいわれます。世界には、それほど多種多様な宗教が存在しているわけです。けれども大きく類別すると「創唱宗教」と「自然宗教」、「自覚の宗教」と「啓示の宗教」という区分はできるとされます。「創唱宗教」「自然宗教」というのは、その宗教の起源、発生に関する類別で、「創唱宗教」というのは、その宗教に創唱者が存在しているのに対して、「自然宗教」はそうした特定の創唱者や創始者となる教祖がなく、いわば自然発生的に成立した宗教のことです。

 

 例えば仏教には釈尊、キリスト教にはイエス、イスラム教にはマホメット(ムハンマド)という創始者・創唱者がいますから「創唱宗教」だとされ、ヒンドゥー教や日本の神社神道(しんとう)などには特定の創始者はなく、いわば自然発生的に成立しているので「自然宗教」だとされます。アニミズムも自然宗教の典型です。

 神道でも、天理教、金光教、黒住教、大本教等の教派神道は教祖・開祖がいますし、日本の仏教の各宗派も開祖が存在しますから「創唱宗教」だということになります。

 

 また別の区分では、「一神教」(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教等)と「多神教」(ヒンドゥー教、神社神道等)という類別の仕方もあります。しかしいずれにせよ、これも極めて大雑把な区分ではあります。

 これらの類別に対して「自覚の宗教」と「啓示の宗教」というのは概略次のような区分です。

「啓示の宗教」というのは、例えば、ユダヤ教はエホバ(ヤハウエ)の神の啓示を受けたモーゼがその啓示の内容(これを神の「預言(よげん)」・「預託(よたく)」といいます)を基として人びとに伝えた宗教ですし、キリスト教はイエスがゴッドから示された啓示のことば(預言)によって伝道したものであり、イスラム教はアッラーの神の啓示を受けたマホメットが、その啓示を記したとされる聖典『コーラン』によって布教したものです。モーゼにせよ、イエスにせよ、マホメットにせよ、いずれも神の託宣を聞いてそれを伝えたのであって、その内容は自分の外から与えられたものです。自身の内なる声でもなければ、自身が悟ったものでもありません。そういう意味で「啓示の宗教」というのです。『新・旧約聖書』や『コーラン』のような『啓典』を聖典とするため、「啓典の宗教」ともいい、またこうした宗教を信ずる人びと、民族を「啓典の民()(たみ)」とも申します。

 

 オクスフォード大学教授で、東洋の宗教・倫理学の権威であるR・C・ツェーナーによれば、これらセム族の一神教に共通するのは、「神によって与えられたと信じる啓示に服従し、その啓示の内容に従って神を崇拝する」という思想だとされます(森本達雄著・中公新書『ヒンドゥー教』30頁)。

 

 これに対して仏教は「自覚の宗教」です。釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタは、神の声を聞いて啓示(預言)を受けたわけではなく、自らがこの宇宙の理法(ダルマ)を悟り、自覚し、その理法を説いたのであって、法を悟って仏(ブッダ・釈迦牟尼仏・釈尊)となったからです。その意味で、仏教は「仏の教え」であると同時に「仏になる(成仏の)教え」でもあるわけです。

 

 これは先のユダヤ教、キリスト教、イスラム教の各宗教の唯一絶対神(エボバ、ゴッド、アッラー)が人間とは隔絶した存在であり、人間は決して神になれず、神との契約を守ることによって恩恵を受け、神の国に召されるのとは基本的に異なります。仏教(特に大乗仏教なかんずく法華経)では、人間も仏になることが可能なのです。

 

○“開く”ということ

 

 ―「四仏知見(しぶっちけん)」と不軽菩薩の礼拝行―

 このように、仏教は元来が「自覚を促す」宗教です。これを法華経によって拝見しますと、まず方便品(ほうべんぽん)第2には次のようにあります。

「諸仏世尊は唯一大事(ただいちだいじ)の因縁(いんねん)を以ての故に世に出現したまふ。[乃至]諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄(しょうじょう)なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したまふ。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に[乃至]。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に[乃至]。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまふ」

(開結100頁~101頁)

 

 これは、仏がこの世に出でたもう目的は一切衆生をして仏自身と同じく「仏知見」を「開・示・悟・入(かい・じ・ご・にゅう)」せしめんがためであることを明らかに示される御文で、これを「開示悟入の四仏知見」と申します。

 この「四仏知見」の第一、最初が「開仏知見」―つまり「衆生をして仏の知見を開かしめる」ことなのです。

 

 次に常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさっぽん)第20には次のごとくあります。

「是(こ)の比丘(びく)凡(およ)そ見る所ある比丘・比丘尼(びくに)[乃至]を皆悉(みなことごと)く礼拝讃歎(らいはいさんだん)して是(こ)の言(げん)を作(な)さく。

 我(われ)深く汝等(なんだち)を敬ふ、敢(あえ)て軽慢(きょうまん)せず。所以(ゆえ)は何(いか)ん。汝等(なんだち)皆(みな)菩薩の道(どう)を行じて、当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得べしと」

(開結488頁)

 

 この不軽菩薩の礼拝行については、この「入門シリーズ」の②③(平成14年2・3月号)で「不軽菩薩の心をいただく」(1)(2)としてやや詳しく記させていただいておりますので、参考にしていただけたらと存じます。

「我深敬汝等(がじんきょうにょとう)」以下の御文は漢字で24文字ですが、その心は御題目の心と同じだと日蓮聖人も『顕仏未来記』に仰せです。

 

 御文の心は「あなたは菩薩行をすれば必ず仏と成る素質(仏性)を秘めておられるのですから、どうかご自身でそのことに気がついてください」と、行き会うすべての人びと(所見〈しょけん〉の人〈にん〉)を仏として礼拝し「仏性(ぶっしょう)の自覚」を促されたものに他なりません。しかも、み仏は同じ不軽品の中で仰せです。

「爾(そ)の時の常不軽菩薩は豈(あ)に異人(ことひと)ならんや。則(すなわ)ち我が身是(こ)れなり」     

(開結492頁)

 つまり、この不軽菩薩は他でもない釈尊自身の前世の姿なのだと仰っているのです。

 

 この不軽の24字にせよ御題目にせよ、お唱えすることによって、閉ざされ、眠っていた凡夫の心を開き、仏性に目覚めさせるものだということを知らねばならないのです。

 

○「妙」とは「開」―妙法こそマスターキー

 

 日蓮聖人は仰せです。

「妙とは法華経に云く、方便(ほうべん)の門を開(ひらい)て真実の相(そう)を示す云云。(乃至)妙と申す事は開(かい)と云事(いうこと)也。世間に財(たから)を積める蔵(くら)に鑰(かぎ)なければ開く事かたし。開(ひらか)ざれば蔵の内の財を見ず」

(法華題目抄・昭定396頁)

「我(われ)日本の眼目とならむ」

(開目抄・下・昭定601頁)

「日蓮が慈悲大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(と)未来までもながる(流布)べし。日本国の一切衆生の盲目を開ける功徳あり

(報恩抄・昭定1284頁)

「開発(かいほつ)」という語も元来は「人間の内に眠っている最も尊い素質(仏性)がみ仏の慈悲によって目覚め、ぱっと開かれ発動・発展する」という意味です。

 

 妙法の本質は「開」であり、上行所伝の御題目こそが、末法のすべての衆生の心の中に閉ざされている仏性を開顕するいわば「マスターキー」なのです。

 

○妙法への帰依(きえ)による仏性の開顕・啓発を

 

 染織家の志村ふくみさんに次のような文章があります。

「親のもとで成長した息子や娘が年頃になって結婚し、就職し、環境によってそれぞれの色彩に変わってゆく。もちろん人間の場合はそれほど単純ではないが、それもある種の媒染(ばいせん)である。自分の持っている素質と遭遇(そうぐう)した事実との関わり合いでどんな色彩に変わってゆくか。(中略)でき得るならば、人間の場合も、自分にもっとも適した媒染を受けて、その素質を伸ばしてゆきたいものである。

 

 植物の場合、もっとも自然な美しい色彩を得るには梅には梅の灰汁(あく)、桜には桜の灰汁で媒染するのがよい。みずからの灰で、みずからを発色させる。人間の場合はどうなるのか。自分で自分を媒染する。さらには自分を何ものかに捧(ささ)げ、あるいは帰依(きえ)するとき、最高の色を発色するのではあるまいか」

(岩波カラーグラフィックス『色と糸と織と』より)

 

 媒染とは、糸を草木を煮出すなどして染めた色を灰汁や石灰や鉄などの媒染剤をくぐらせることによって、元の色とは違った色を発色させ定着させる染織技術です。

 それが桜の木で桜色を発色させるには、同じ桜の木の灰汁が一番自然な美しい色を発色させるのです。

 

 人間の場合は「自分で自分を媒染する。さらには自分を何ものかに捧げ、あるいは帰依するとき、最高の色を発色するのではあるまいか」と言っているのです。これは志村さんという一流の染織家が、自身の仕事を通じて感得した卓見だと存じます。

 

 ここで日蓮聖人の御妙判をいただきます。

「凡(およそ)妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と(乃至)三世の諸仏の解(さとり)の妙法と一体不ニ(いったいふに)なる理(ことわり)を妙法蓮華経と名づけたる也。故に一度(ひとたび)妙法蓮華経と唱ふれば一切の仏(乃至)一切衆生の心中の仏性を唯一音(ただひとこえ)に喚(よ)び顕(あらわ)し奉る功徳無量辺也。我が己心(こしん)の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給ふ処(ところ)を仏とは云ふ也。譬(たとえ)ば籠(かご)の中の鳥なけば空をとぶ鳥のよばれて集るが如し。空とぶ鳥の集れば籠の中の鳥も出(いで)んとするが如し。口に妙法をよび奉れば我身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ」

(法華初心成仏抄・昭定1432~3頁)

 

 同じく媒染を受け、あるいは帰依するなら、私たちにとって最高のものをいただかねばなりません。それが末法の凡夫にとっては上行所伝の御題目なのです。

 

 信仰の本質はまさしく帰依・帰命(きみょう)することに他なりません。最高の御本尊・み仏のたましいたる御題目に帰依し、すべてを捧げることです。

「南無」とは梵語(ぼんご)で「帰依」を意味する語の音写(おんしゃ)です。妙法に帰依し、受持信唱させていただくのは、一見すると自分の外の存在に向かっているようですが、実はそうではないのです。外なる妙法に帰依し口唱することが、実はそのまま自分の内なる妙法(仏性)を呼び顕わす(開き、啓発する)ことに他ならないのです。

 

 それを日蓮聖人は籠の中の鳥と外の鳥とが鳴き交わす様(さま)に譬えておられるのです。しかも、妙法でなければ妙法(仏性)は呼応しないのです。志村さんは「自分で自分を媒染する」「あるいは帰依する」とき最高の色を発色するのではないか、と言っていますが、妙法の口唱はこの一行に両方の意味を兼ね備えているとも申せましょう。最高の御本尊(妙法)に帰依し妙法を口唱することによって、実はお互いの内に秘めた最高の素質(妙法・仏性)を開き、啓発させていただくのですから。

 鳥が呼び交わす譬えは、本当によくわかります。

 筆者も、少年のころ田舎で育ちましたから、メジロやウグイスを同じ方法で捕えました(現在はそんなことをすれば違法で、罰せられますが)。よく鳴く鳥を一羽籠に入れて森に行き、木の枝に吊るして、その周囲にトリモチを付けた細い棒を何本か仕掛けておくと、野生の同種の鳥が集まってきて、内と外で鳴き交わしているうちにトリモチにかかるのです。メジロにはメジロ、ウグイスにはウグイスが集ってくるのです。

 日蓮聖人も、もしかしたら少年時代にそんな経験がおありだったのかもしれません。いずれにせよ、これは当時の民衆にもよく知られていたことなのでしょう。

 

 開導聖人が御教歌に次のようにお示しくださっているのも同じ意かと存じます。

 妙法の声をよそにやきゝぬらん

    おのが心の名ともしらずて

(拝要抄(下)・扇全12巻167頁)

 

「凡夫の心の中に眠っている仏性の名が実は他でもない御題目なのだから、御題目を唱えるということは、実は自身の仏性に呼びかけているということなのだ。そのことに早く気付き、自覚してほしい」と仰せなのです。自分の名を呼ばれた方が、目も覚め易いのはもちろんですね。