―「原理主義」に陥(おちい)らぬよう―

 

 

○進行する静かな大変革

 

 前回と前々回の2回にわたり、「平等と差別(不二と而二)―ジェンダー・フリーに寄せて―」のテーマで記し、仏教の「不二(ふに)と而二(にに)」の観点からの「ジェンダー・フリー」の概念の基本的な説明を試み、「男女共同参画の社会の中での佛立宗のお役中のあり方は?」という視点も、これからのお役中には求められている旨申しあげました。

 

この問題につき付言いたしますと、「時代の風」(平成16年4月11日・毎日新聞朝刊)で、川勝平太氏(国際日本文化研究センター教授)は次のように指摘しています。

 

「(前略)いまや、高等学校への進学率は97%で、ほぼ全員が高校に進学しており、実質的に義務教育と変らない。

 大学(短期大学を含む)への進学率は50%。つまり、高卒の2人に1人が大学に進学している。この高い進学率の背景には女子の進学率の上昇がある。平成期に入ってから16年間、女子の大学進学率の高い年の方が多いのだ。これは現代の日本社会で進行している静かな革命である。というのは、平成元年に18~19歳で大学に入学した人は、現在では34~35歳、言い換えると、18歳から34、35歳までの青年の学歴は男女で差がなく、あと10年すると44、45歳まで、また20年すると54、55歳までがそうなる。つまりこれから20年のうちに、日本の働き盛りの年齢層で男女に学歴差がまったくなくなる(ただし、大学院への進学率は現在10%をこえたが、女子の大学院進学率はまだ男子の半分だ。しかし、確実に女子の大学院進学率も上昇しており、早晩、対等になるだろう)。

 そのことから女性の社会的地位は確実に上がっていくと予想される。

「元始、女性は太陽であった」と平塚らいてうが1911年に雑誌『青鞜(せいとう)』の発刊の辞にかかげて婦人の地位向上の運動をおこして以来、その成果が実り、女性の地位はついに男性と対等になる。日本の社会は、卑弥呼(ひみこ)が女王であった時代を過ぎてからは、男子が圧倒的な優位をしめしてきた。それがくつがえる。2000年来の大変革である。女性にとっては、男女同権に向けた男との戦いにもまして、女性同士の競争が熾烈(しれつ)になるだろう。日本のすみずみにおいて、ますらおぶりの男性的価値から、たおやめぶりの女性的価値が重きをなすようになるだろう。(後略)」

 

「ジェンダー・フリー」も「男女共同参画社会」も、もう現在のものなのだということです。「意識変革とその実践の努力はお役中の急務だ」と申さねばなりません。

 

 さて今回は「謗法を戒める…信仰の純正化」というテーマです。

 

このテーマに深く関連するものとして、このシリーズの「懺悔(さんげ)の大事」(1)(2)(平成15年1、2月号、シリーズの⑬⑭及びそれをまとめ補足した⑮)があります。例えば⑭では次のように記しました。

 

「まず懺悔すべきは妙法不信(謗法)の罪です。お互いの命の根源ともいうべき妙法を信ぜず、誤った生を繰り返す事で重ねた罪(根本罪障)を懺悔するのです。(中略)

 お互いは方角を誤った旅人、あるいは脱線した列車にも譬えられます。進んでいるつもりが、目的地からは離れるばかり、いや前進すらできず無駄な労力を費やしているのです。一刻も早くそれに気付き、方角を正し、レールを復旧して乗せ直さねばなりません。根本さえ正せば、ずっと楽に本来の目的地に到達できるのです。」

 

「謗法」というのは「真実の大法(法華経本門八品に顕され、久遠のみ仏から上行菩薩に付属された御題目・妙法)を謗(そし)ること」つまり「妙法不信」ということに他なりません。そしてこの「不信」(違背)というのは必ずしも積極的に誹謗(ひぼう)し敵対することだけを意味するものではありません。消極的に「信じない」ことも、さらには無関心で妙法の存在そのものも知らず、結果的に妙法に背いた生き方をしている場合も含みます。言い換えれば、積極的に妙法を信じ行じていない限りすべて「不信」であり、「謗法」なのです。

 

私どもが「無始已来謗法罪障消滅(むしいらいほうぼうざいしょうしょうめつ)」と『無始已来の御文』で言上申しあげる「謗法」というのがまさしく謗法の根源であり、根本なのです。過去遠々劫来(おんのんごうらい)、無数の生を繰り返すなかで、意識的にせよ、無意識的にせよ、今日(こんにち)まで妙法を信ぜず行ぜず、誤った生を繰り返し、その為に罪(謗法罪)とその罪による成仏の障(さわ)り(罪障)とを積み重ねて来た、この謗法による罪障を消滅させていただけるよう、只今からは妙法を受持信唱し、成仏の果報をいただくまで(仏身に至〈いたる〉まで)もう決してはなしません(持奉〈たもちたてまつ〉る)、と言上申しあげるのですから、この御文こそ根本の謗法と罪障を懺悔し、改良をお誓いする御文なのです。

 

○謗法を戒める―信仰(信心)の純正化

 

 謗法を改めるということは、先にも記したように「信心の角度を正す」「修正する」ということです。従来の誤った方角、角度を妙法に正対するよう改めると同時に、今後もその角度がズレたりすることのないよう、常に注意し続けていくことが大切なのです。「指南」の原意はコンパス、羅針盤のことだということも⑮で申しあげた通りです。角度は、ほんの1度、1分、1秒でも誤れば、遠い先では道を大きくはずれることになります。「謗法はいわば信心の角度違いなのだから、たとえわずかでも誤れば目的地(成仏)には到達できない。よくよく注意をするように」というのはこのことです。とにかく「方角を正し、まっすぐに進み続けること」が大事なわけです。

 

 当宗の「宗風」第四号(決定〈けつじょう〉)に「……悪世末法(まっぽう)の求法(ぐほう)の道に迷惑(めいわく)せぬよう用心し、妙法に一心帰依(いっしんきえ)して……決定無有疑(けつじょうむうぎ)の素懐(そかい)に住(じゅう)する」と明定(めいてい)とされているのも、こうした観点からいただくこともできます。「求法の道に迷惑せぬ」というのはまさしく「成仏を期して、妙法の正しい信心の道を誤り迷うことのないよう」ということで、その為にはフラフラせず「妙法に一心帰依」せよと示されるわけで、これは当然ながら、第三号(止悪〈しあく〉)の「習損(ならいそん)じを戒め、謗法を折伏する」ことと一体となっています。

 

 ここで開導日扇聖人の御指南をいくつか頂戴しておきます。

 

①「法に背(そむく)を謗と云(いう)也」(上欄)

 「祖師の御(み)をしへにまかすか、我が迷ひのおもはくにまかすか。これによりて信不信、賞罰顕然(しょうばつけんねん)也。」
(開化要談・教・扇全1423頁)

 

②「謗法は障(さわり)也。

 (乃至)謗法あらば信者たりとも御利生(ごりしょう)顕(あらわ)れず。(乃至)御題目を願ふ外(ほか)に余所(よお)を頼むを謗法と云也。」

(本門正機信入抄・扇全11217頁)

 

③「謗法となる筋(すじ)と信心の用心とを常に御(おん)心がけ候て(乃至)成仏の叶(かな)ひがたきは只これ謗法にあり。謗法だにまぬがれたらば、成仏は掌(たな)ごゝろにあり。」

       (御書抄・全・扇全15332頁)

 

○諸(もろもろ)の悪の中には謗(ぼう)法華経第一の極悪重罪也。

○諸善(しょぜん)の中には題目信唱第一の極善(ごくぜん)大福也と云々。」 

(末法折伏要学抄・扇全9115頁)

 


以上要するに当宗においては、ただ上行所伝の妙法の受持信唱こそが信行の根本なのであり、妙法の一向口唱、一心帰依が肝心なのであって、これに反するもの、不純なものはすべて「謗法」となり、そうなると現証の利益はもとより、成仏の果報など到底いただけないことになるのです。「謗法を戒める」ということは、そういう意味で「信仰の純正化」を意味するわけです。「妙法不信」という根本的な謗法がもととなって、懈怠(けだい)をはじめ信行ご奉公の具体的なありようにつき、さまざまな謗法が生じてきます。

 


次回には、謗法の中身についてもう少し具体的に記すると同時に、いわゆる「原理主義」との対比を通して、誤って原理主義に陥らないための用心についても触れたいと存じます。

 

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 お寺の鉢植えのクジャクサボテン()が咲きました。品種は沢山。月下美人と同じ仲間ですが、昼間に咲きます。蕾は数個ありますが、これが最初の花です。(J・M)

ホタルブクロも咲きました。
2015年5月6日(水)
 

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 2年前に、伊万里から来て、ウチの裏庭に植えたのが、今年初めて咲きました。赤味が強いけど、蕾が沢山付いてます。ホタルブクロはキキョウ科。ウチのはヤマホタルブクロではなく、普通のホタルブクロです。(J・M)

 

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 2年前、この薔薇が流行ってたころ、鉢植えにして、以来、簡単な世話をしてきました。それでも、毎年、この時期になると、ちゃんと咲いてくれます。  昨日(5月4日)は「博多ドンタク」で、今日は「こどもの日」。明日(5月6日)は、二十四節季の「立夏」でもあるかな?だとすれば、暦の上では、もう明日から夏。今日は爽やかな良い天気です。(J・M)