―「原理主義」に陥(おちい)らぬよう―

 

 

○謗法―その中身と態様

 

 前回は「謗法を戒める―信仰の純正化(1)」として「根本の謗法」である「妙法不信」について説明し、この「不信」とは「積極的に妙法を信じ行ずる以外のすべて」、つまり「積極的に妙法を誹謗(ひぼう)し敵対する」ことはもとより、「信ぜず行ぜぬ」状態や、さらには「無関心」や「妙法を知らない」状態をも含む旨申しあげ、開導聖人の御指南もいくつか紹介させていただいた上で、〈要するに、当宗においては、上行所伝の妙法の受持信唱こそが信行の根本なのであり、妙法の一向口唱、一心帰依が肝心なのであってこれに反するもの、不純なものはすべて「謗法」となり、そうなると現証の利益はもとより、成仏の果報など到底いただけないことになるのです。

「謗法を戒める」ということは、そういう意味で「信仰の純正化」を意味するわけです。「妙法不信」という根本的な謗法がもととなって、懈怠(けだい)をはじめ信行ご奉公の具体的なありようにつき、さまざまな謗法が生じてきます〉と記しました。

 

 今回は、この「根本謗法」に基づいて生じてくる謗法の中身ないし態様について極く概略の説明をさせていただき、次回では、特に「謗法に対する折伏」が、誤っていわゆる「原理主義」に陥(おちい)らないための用心について言及したいと存じます。

 

 なお、まず最初に整理をしておかねばならないと思うのは、「信者」(宗内)と「宗外者」(宗外)との区分です。

「信者」も、「無始已来」の御文で常に言上申しあげるように、元来は妙法に違背してきた謗法の人だったのですが、入信して妙法に帰依してそれ迄の謗法を懺悔し、仏祖のみ教えに随順して罪障消滅を志す者です。その信行の道を歩むについて道を誤ることのないよう(つまり謗法を犯さぬよう)信心の純正化を心掛けるわけです。

 

 これに対してまだ当宗に入信していない宗外の人びとは、当人の知・不知は別として、まだ妙法に帰依していないのですから、その意味で皆すべて「謗法の人」なのであり、一日も早く正法に随順せしめるべく折伏・教化をさせていただくべき対象に他なりません。宗外者を指して「謗法人」と一括して呼ぶこともありますが、それはそういう意味ですから、宗内でこそ許されるとしても、宗外者に向かって使用すべき呼称ではありません。

 

 また同じく「謗法に対する折伏」でも、信者に対するときは主として「信行の改良や育成」を目的とするものであり、宗外者に対するときは「教化」を目的とするものなのです。こんなことは当然のことですし、よく分かっていることだとは存じますが、それでもややもすると混同してしまうようなこともあるようですから、やはり注意が必要です。宗外者に対して、あるいは本人はまだ信者の自覚を持っていない人に対して、こちら側はまるで「信者のごとく」思い込んで折伏をしてしまうようなこともあるわけです。

 

 例えば、ご信者の家族・子弟で、幼い頃は親と共に薫化会やお寺に参詣していたものの、成長してからは信心から離れ、いわば宗外者同然になっている人に対してはどうでしょう。少しは当宗のことを知っているにしても、当人の意識なり自覚なりの上では信者とは言い難いのですから、そういうことをよく踏まえ、むしろ宗外者に準じた対応をする配慮が必要でしょう。

 

 それなのに「あなたの親は立派な強信者だった。あなたもこうしなければ謗法だ」などと言ってしまったら、相手は到底受け入れ難いのではないかと存じます。これに類したことは他にもいろいろとあると存じます。「混同しないように」というのはそういうことです。

 

「謗法」はもちろんすべての衆生に基本的に該当するものであり、その折伏・改良も同様です。けれども、すでに信者となった者に対する場合と、宗外者に対する場合とでは、その折伏・説得のあり方も手順も当然異なるのだということをよく弁えておく必要があります。開導聖人の御指南をいただく際も、その点は留意する必要があるわけです。因みに開導聖人の御指南で謗法に関するご教誡の多くは、やはり信者に対するお折伏であり、信心の純正化に関するものだと申せます。

 

○「謗法」の種別と態様

 

 謗法の種別と態様については、実に様々なものがあり、具体的な場面での細かな区分や類別をしていけば、文字通り際限がないと存じます。そこでここでは極く極く基本的な概説のみでお許しいただきたいと存じます。

 

①妙法不信(違背)、疑迷〔ぎめい〕、懈怠〔けだい〕

 

○「妙法不信」は既に記したごとくいわば「根本の謗法」です。そこから、意識的にせよ、無意識的にせよ、あらゆる謗法が派生してきます。「疑迷」は妙法や仏祖のみ教えに信順せず、これを疑ったり、道に迷ったりすることです。これは主として凡夫の考え・我見〔がけん〕(世間のいわゆる“常識”も含む)が邪魔をしているわけで、その意味では凡夫の「我」(が)こそが「信」を妨げる根源だと申せます。またこれは「自分の我見が仏祖のみ教えより優先する」ということで、これを「慢心」「(驕)慢〔きょうまん〕」と申します。そしてこうした心がもととなり「懈怠」が生じます。凡夫は元来が怠りがちなものですが、正しい信心のあり方、角度を定めても、これに向かって進む(精進〔しょうじん〕)ことを怠けるわけですから、これではご利生もいただけません。

 

○開導聖人が御教歌に

 御利益のいたゞけぬみち四(よ)ついかに

    うたがひまよひほこるをこたる

 と仰せなのは正しくこの点です。

 

○「法華経は一切経の中の王也。南無妙法蓮華経の五字は一部(いちぶ)の御意(みこころ)也。故に万法具足の秘要法と申也。何(いず)れの経々の功徳も、何れの仏菩薩等の御利生(ごりしょう)も、みなみな此(この)一大秘法にこもれり。故に余宗余経(よしゅうよきょう)をたのむ心あるを謗法の疑迷(ぎめい)といふ也。御利生なし、御罰あり。」

(如四観三意抄・扇全1311頁)

 

○「もろもろの薬を薬とおもひて、上行所伝の要法(ようぼう)《良薬》を不信のものは、宗内の謗法人也。大良薬(だいろうやく)の外(ほか)に諸(もろもろ)の薬を求るは謗法也。」

(御弟子旦那抄上・扇全1475頁)

 右の御指南は共に「疑迷」の具体的かつ代表的な例で、要は妙法に一心帰依のできていない姿です。また次のようにも仰せです。

 

○「信者謗法を改めずしていか程口唱に励むとも御利生ある事なし。云はゞ風呂のつめをせずして水を汲入(くみい)るゝが如し。」

(十巻抄第三・如説抄拝見完・扇全14411頁上欄)

 妙法はすべての功徳が不足なく具(そな)わっている大良薬なのだから、ただ一筋に妙法の受持信唱をさせていただくいことが肝心。それなのに疑迷等の謗法があっては、いくら妙法を口唱しても御経力をいただくことなどできない。それはあたかも栓(せん)の抜けたままの風呂に水をためようとするようなものだ、と戒められるのです。

 

②「事相の謗法」と「心の謗法」

 

「事相の謗法」とは外見からそれと見える謗法、外形的に認知できる謗法のことであり、「心の謗法」とは内心の謗法で、外見からはそれと認識しにくい謗法を指します。

 開導聖人は御指南に仰せです。

 

○「病(やまい)のつらさに謗法の札守(ふだまもり)等は払(はら)ふと云へども、其(その)心に若(もし)思ひ引(ひか)るゝ事かくし有る謗法等あるときは御感応(ごかんのう)なし。猶(なお)責(せ)めて用ひざれば助行する事なかれ。」

(和国陀羅尼〔やまとだらに〕・扇全14317頁)

 右の御指南は次の御教歌のお書き添えです。

 

○おぼつかな折伏うけて謗法を

   はらへど人をうらみがほなる

 

 病人を折伏して入信せしめ、他宗堂社の札(ふだ)や守(まもり)等、外形からそれとわかる謗法(事相の謗法)は何とか払う(これがいわゆる「謗法払〔ほうぼうばらい〕」)ことはどうにかできたのだけれど、まだ心底では得心していないらしく、いかにも未練(みれん)がましい表情をしている(つまりまだ「心の謗法」は残存している)。これでは本当の入信・帰依ができていないのだから、ご利生をいただくこともおぼつかない。この点を再度よく折伏し、得心させてからでないとお助行も効果がなく、無駄になってしまい、結果却(かえ)って妙法を疑い軽しめることにもなりかねないから、そこをちゃんとするまではお助行もしない方がいいぞ、との意です。

 

 概して「事相の謗法」は外形上のものですから折伏して払うこともある面で容易ですが、「心の謗法」は内心のもので外から認知しにくいため払いにくいとも申せます。余程ことを分けて穏(おだ)やかに、よくよく説明して、得心させる必要があるわけです。

 

③「言語の謗法」「所作の謗法」「心の謗法」

 

 これはいわゆる「身(しん)・口(く)・意(い)三業(さんごう)」で犯す謗法です。こういう類別もあるのです。

 御指南には次のようにございます。

 

○「先(まず)自(みず)らをつゝしむの一段。

 われと謗法を改むるに大なる功徳をうる也。

 さんげして口唱すれば所願速(すみやか)に成就す。

一 言語の謗法

二 所作の謗法

三 心の謗法也。(後略)   」

(一紙一座法門抄・扇全6428頁)

 

これは何れも「自身の改良」を促された御指南ですが、信者一般や相互にもあてはまります。

 

1)「言語の謗法」は三業のうち「口」の謗法です。自身が嘘をついたり、謗法がましいことを口にするのはもちろんですが、同時に他の信者が口の謗法(悪口〔あっく〕、両舌〔りょうぜつ〕、妄語〔もうご〕等)を犯しているのを見聞きしながら折伏しないのも「与同(よどう)の謗法」(与同罪とも。自身が直接謗法を犯すのではないが、見てみぬふりをし、折伏しないのは直接犯しているのと同じ、いわば共犯だというのが「与同」の意)だと戒めておられます。

 

2)「所作の謗法」は身体の振舞での謗法ですから、三業では「身」の謗法です。所作のすべてにわたりますが、例えば「他宗の堂社の前にて足袋(たび)のひもを結ぶ等」、心ではそうでなくても外形から見て謗法と紛(まぎ)らわしい所作振舞(これを「相似〔そうじ〕の謗法」と申します。気持は全くそうでなくても、他から見て間違われかねないような行動)も可能な限り避けよ、と諭されています。いわゆる「李下(りか)に冠(かんむり)を正さず。瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず」(文選〔もんぜん〕)ということです。

 

3)の「心の謗法」は意業によるもので、内容は既に説明した通りです。なお、(1)と(2)は「事相の謗法」でもありますね。