⑭懺悔(さんげ)の大事 (2)
2013年9月27日(金)
 

―改良と成長の基(もとい)・精神の若々しさの証明―


○懺悔の基本的要素


 先月号では、懺悔こそ信行生活の基本精神であり、『妙講一座』の「無始已来」の御文から「願くは生々世々」の御文までの全体(五悔[ごげ]=懺悔、勧請[かんじょう]、回向[えこう]、随喜[ずいき]発願[ほつがん]の各段の御文)を一貫し、通底するのも他ならぬ懺悔の心であることを概説して、この御文全体を、「凡夫から菩薩への生まれかわりの姿」として頂戴し、あるべき信者の姿、モデルとしていただくのも、『妙講一座』に対する私共の理解を助ける上で有効な、一つの拝見の仕方ではないかと申しました。

今月は「懺悔そのものの意味」について記すのですが、これも理解と整理を助けるために、「懺悔」を、その基本的な要素に分かって説明してみたいと存じます。

天台大師は「懺とは先悪(せんあく)を陳露(ちんろ)するに名(なず)け、悔とは往(おう)を改め来(らい)を修(しゅ)するに名く」(摩訶止観第七下)と釈されています。先悪とは今日までの過去に犯した悪業(あくごう)のことです。陳(ちん)とは申し述べる、言葉で説明する(開陳、陳述、陳弁)する意であり、露とはあらわにする(吐露、暴露、露出、露見)意ですから、陳露とは、これまで覆(おお)い隠され、知られずにきたことを、誰にもわかるよう余さず露(あらわ)にし、隠さずすべて告白することです。

告白の相手は第一に御宝前(仏祖)であり、第二に人びと(お教務・ご信者方)です。

「往を改め来を修する」とは、来(こ)し方・過去の反省をふまえ、その償(つぐな)いとして、今後未来にわたって善行を実践することです。もちろんこうしたことの前提として「罪の自覚」を要するのは当然です。

 要は「罪の自覚とその告白、そして深い反省に基づく改良の実践」が懺悔の基本的な要素なのです。


○佛立宗の懺悔

A 何を懺悔するのか
・根本の誤り(謗法罪)の自覚とその修正の大事

 まず懺悔すべきは妙法不信(謗法)の罪です。お互いの命の根源ともいうべき妙法を信ぜず、誤った生を繰り返す中で重ねた罪(根本罪障)を懺悔するのです。しかし、この罪の自覚は容易ではありません。罪障が自覚を妨(さまた)げているからです。ですから、罪が自覚できず妙法を素直に信受できないことが、お互いの魂が罪で汚されている何よりの証拠だと知らねばなりません。それはあたかも、アルコール症の中毒患者が自分では自覚し難いのと同じです。ましてや周囲がみな同じ病気なのですからなおさらです。

 お互いは「方角を誤った旅人」、あるいは「脱線した列車」にも譬えられます。進んでいるつもりが、目的地からは離れるばかり、いや前進すらできず無駄な労力を費やしているのです。一刻も早くそれに気付き、方角を正し、レールを復旧して乗せ直さねばなりません。根本さえ正せば、ずっと楽に本来の目的地に到着できるのです。ではどうすればこの罪障を消滅させていただけるのでしょう。

B どう懺悔するのか

・口唱即信心 経力で罪滅

 妙法口唱こそ唯一まことの懺悔の方法です。背離してきた源に還ることです。自覚できず、信受し難いお互いですが、強いてまず口にお唱えするのです。永遠のみ仏の命が、口業[くごう](声)を通してお互いの魂の底の底にまで達し、眠っている本来の生命を揺り動かし、呼び覚ますのです。これが妙法の経力です。我執(がしゅう)を押え、とにかく口唱信行を実践することが大切です。坐禅、苦行、読誦その他の修行は、脱線した列車をそのまま押すのと同じです。


○改良と成長の基(もとい)―精神の若々しさの証明


 開導日扇聖人は御指南に仰せです。

「懺悔の心起(おこ)る時には我(が)なし。我を捨(すつ)る時に信起る。信起る時御利益を頂く。御利益を頂て弥(いよいよ)信を生ず。懺悔の心の起る時最初也」

(開化要談九・扇全十三巻二二〇頁)

「懺悔改良といふ其こゝろは、こぞの古葉残りなく落(おち)て若葉さすみず(瑞)枝(え)のごとし。古葉残りなくと云々 心を留(とどめ)よ。のこりなきを懺悔といふ。若露塵斗(もしつゆちりばかり)旧弊(きゅうへい)の悪あれば懺悔しても御利益なし」

(見せばやな・扇全九巻七七頁)


一般には、懺悔というと暗いイメージを伴うようです。そこでこれを茶化して反対に笑いを誘っているテレビ番組もあります。しかし法華経本来の懺悔の根本には生命の躍動する輝きがあるものです。人間としての本当の成長=生の充実をもたらすものだからです。真の懺悔は苦悩を伴います。しかし、その苦悩の向こうには明るい新たな地平が開けているのです。その意味で懺悔は、本来の自己に目覚める自己改革の営みであり、成長の母胎なのです。そんな懺悔ができるのは、精神の若々しさ、柔軟さの証明だとも申せましょう。


凡夫の「
(が)」「慢心」を捨て切り、たとえほんのわずかでも悪を残さないのが肝心であるとも仰せですし、「去年(こぞ)の古い葉を全て落とし切ってこそ、瑞々(みずみず)しい若葉や若枝が出てくる」との譬えも新鮮です。例がよくないかもしれませんが「何一つ残さぬことが大切」というのは、サラ金などの借金にも似ているのではないでしょうか。


○常日頃の懺悔の大事

 着物を着れば知らぬ間に袂(たもと)にごみがたまります。人間も生きて活動している以上、必ず過(あやま)ちを犯しているのです。また、御戒壇(ごかいだん)には毎日塵(ちり)がつもりますが、それを日日ふきとっていけば光ってきます。ほおって置くと駄目になり、常に改めていけば次第に輝き出すのがお互いです。日常平生の懺悔の大切さも忘れてはなりません。


最後に「宗綱」第十三条(宗風)第七号「懺悔」の条文も掲げておきます。

「『懺悔(さんげ)は起信(きしん)のスガタ也』のみ教えを体し、妙講一座の要文(ようもん)に示された看経勤行(かんきんごんぎょう)によって常に心を清浄(しょうじょう)にし、改良と信心向上につとめ、経力(きょうりき)、仏力(ぶつりき)を蒙(こうむ)る滅罪生善(めつざいしょうぜん)の口唱行に励む。」

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