―「あとつぎづくり」と「信教の自由」―

○「信教の自由」と法燈相続

 

前回は「法燈相続の大事」(1)として、まず法燈相続の基本的な概念の理解をした上で、例えば親子の関係でいえば、親の子に対する愛情の表現の仕方も多くあるが、その中でも最高の愛情表現は、この真実の大法・御題目のご信心を相続させることだと申しました。愛情といっても、猫可愛がりに甘やかす“痴愛”もあれば、その子が将来どこで、どんな暮らしをし、どんな苦難に直面しても支えとなり、さらには来世までも救い、真実の幸せに導くことができるようにする、その基(もとい)を与えようとする愛情もあるわけです。よくよく考えてみれば、信心を与えることに優(まさ)る愛情はないことに思い至ります。この点についてはこの連載の第三回(平成14年3月)、「不軽菩薩の心をいただく(2)」=「相手に対する真の尊敬」と「自ら求め続ける心」を大切に=で、大村はま氏の『教えるということ』(現在は『新編・教えるということ』ちくま学芸文庫刊)からの抜粋なども紹介しつつ述べたこともありますので、併せて参考にしていただいたらと存じます。

 また、法燈相続の元来の意味からいえば、この語の使用は必ずしも親子等の血縁間での信心相続に限られるものではなく、教化親と教化子はもとより、先輩と後輩のご信者間でも用いることができる語であり、さらには「お役の相続」のような後継者の養成も含めた「あとつぎづくり」という広い意味をも包含するものであるから、そういう観点からも改めて大切に見直すべきことを、新発見の「ミラーニューロン」(鏡神経細胞)の働きなども紹介しつつ申しあげました。

 さて今回のテーマは「信教の自由と法燈相続」です。この問題について考えるにあたって、まず清風寺のある教区で平成10年に実施された小さなアンケート調査の結果を紹介しておきたいと存じます。二つの教区の婦人会員を対象とした簡単な調査で、回答者は61名です。極く限られた範囲での調査ですし、選択肢の作り方によっても種々の相違が出てくるのがこうした調査の常ですから、決して厳密なものとは言えないでしょうし、これだけで適正な判断ができるとは考えてはおりません。でも少なくとも一つの参考資料にはなるかと思うのです。ちなみに法燈相続に関する選択肢は次の三つでした。

①法燈相続は親の責務だと考える。

②「信教の自由」だから親でも強制できない。

③本人の考えに任せる。

 回答結果は①が15名、②が15名、③が31名でした。この結果で見る限り、親が子に佛立信心を相続させることは親の責務だと考えている婦人は回答者の約四分の一にしか過ぎないのです。②は一応勧めはしても、「信教の自由」が憲法で保障されている以上、強制することはできないと思っているわけで、これが同じく約四分の一。③は要は本人の考え次第で、本人任せにしている。これが約半数です。③と回答した人の判断の背後には②の考えもあるのではないかと思われ、いわば消極性の程度の違いかとも考えられます。そしてここには「信教の自由」の意味・内容に対する大きな誤解の存在が看取されるのです。


 これからの説明には少し難しい言葉も出てきますが、全体としては決して難解なものではありません。まずはとにかくざっと目を通してください。

○憲法が保障する「信教の自由」は、基本的に「国家からの自由」である

「信教の自由」はいわゆる基本的人権の中の「自由権」の一つです。そしてこの「自由権」というのは「国家が個人の領域に対して権力的に介入することを排除し、個人の自由な意思決定と活動とを保障する人権」であり、その意味で「国家からの自由」とも言われるものです。「国家の権力的な介入を排除する」ということが重要なのです。この点をよく注意してください。先のアンケートで②や③と答えた方(全体の四分の三)は、「個人の自由な意思決定と活動とを保障する人権」という点にのみとらわれてしまい、「国家からの自由」なのだという大切な点を見落としているのではないかと思うのです。これをもう少し分かり易く説明するために具体的な例を挙げておきます。

 よくあることですが、例えばキリスト教や仏教等の特定宗派の私立の幼稚園や小・中・高校等で、児童・生徒が特定宗教に基づく宗教儀式に出席したり礼拝することを強要されたとしたら、これは憲法の保障する「信教の自由」に反する違憲行為となるでしょうか。なりませんよね。ところが同様のことがもしも公立の学校や幼稚園で行われたとしたら、間違いなく違憲なのです。なぜでしょう。先に記したように「信教の自由」が「国家からの自由」だからです。ですから国及びその機関、地方自治体、公立の学校や組織等が、国民(私人[しじん])の信教の領域に介入すればこれは直接憲法に抵触(ていしょく)することになるのです。これに対して、私立の学校のように国及びその機関等でない私人(しじん)たる団体・法人等が特定の宗教行事や儀式を実施したり、生徒に参加を強制したとしても、基本的に直接憲法問題とはならないわけです。ましてや個人が他の個人に特定の信仰を勧めたり、親が子に御講参詣や入信・御本尊の奉安を勧めたからといって、これが信教の自由に触れる違憲行為となるはずがありません。それどころか、むしろそれこそが、信教の自由の内容として国民に保障されている内容そのものなのです。

 ですから、他の人(子も含む)に自分の信ずる信仰について話をし、その信仰を勧める行為に対し、「相手の意に反して特定の信仰を勧めるのは信教の自由に対する違憲行為だ」などという批判は、「信教の自由」の基本的な意味を全く理解していない、誤った思い込みに基づいて発せられているものなのです。相手から「憲法違反だ」などと言われると、ついつい腰が引けてしまいかねない。それどころか、そんな風にいわれなくても、最初から何となく「信教の自由だから、信心のことは親でもあまり言えないな」とご信者自身が思っていて、そのために「まあご信心のことは本人任せにするしかない」などと思い込んでいるとしたら、これも同じ誤解をしているのです。「憲法の保障する信教の自由の“自由”は“国家からの自由”なんだよ。個人が他の人に何かの信仰を勧めるのは、それこそが憲法で国民に保障された信教の自由の中身そのものなんだから、憲法違反なんてとんでもない誤解だよ」と、まずは穏やかに誤解を解くように話しておくことが大切です。もちろんこの誤解が解けたからといって、それで「相手が入信する」というような簡単なものではないでしょう。何といっても信仰そのものは個人の内心のものですから、その点だけを言うなら憲法があろうとなかろうと、誰も強制できるはずがありません。本心から信ずるか信じないかは、本人の内心の問題だからです。でも「御題目ほど有難いものはないのだから、あなたも御題目を信じてお唱えしなさい」、「とにかくお寺に参りなさい」、「今日の御講に参らなかったら今月のおこづかいは無しよ」等と、親が子に言ったとしても、それが直接憲法に違反するなどということは決してありません。もしも、それで「親の行為は憲法に反する」などと言って警察などが介入してきたら、それこそ公権力が憲法違反を犯すことになるのです。

「信教の自由の内容と限界」や「人権の私人間効力(しじんかんこうりょく)〈通説・判例は間接効力説〉」等については、次回でできるだけ分かり易く触れたいと思っています。「何だか難しそう」と思うかもしれませんが、お役中さんともなれば、最低限理解しておくことが、宗外者やご信者の家族等と対応する際に有益だと思いますし、例えば「パナウェーブ研究所」(白装束集団)や「オウム」(現・アーレフ)等の問題を「信教の自由」との関連において見ていく上でも少しは役に立つと思います。

○「宗教教育を義務教育(公教育)にも導入せよ」という意見には問題がある

 親が法燈相続を願い、佛立信心を強く勧め導くことは、その方法や程度が「公序良俗(こうじょりょうぞく)」や「社会通念(つうねん)」に反する非常識なものでない限り、それこそ「信教の自由」で保障された「信仰の自由」や、布教等の「宗教活動の自由」に基づく行為なのであり、決して「信教の自由」に反する行為ではないことをよく理解し、もっと自信を持って積極的に法燈相続を勧める姿勢と努力が大切なのだということを、まずはしっかり理解しておいていただきたいのです。

 さて近年一部の学者や識者等の間から、「正しく豊かな情操教育のためには、やはりどうしても宗教教育が不可欠である。できれば義務教育の中に宗教教育を入れるべきだ」との意見が出されています。例えば梅原猛氏(故人)が京都の私立洛南中学で一年間行った講義の記録が『授業―仏教―』として刊行され、多くの読者に感銘を与えています。その中で、氏は、宗教教育の大切さを力説されると同時に、公立の学校では実現できなかったことを残念に思っていることも表明されています。

 でもこうした意見・見解はやはり問題だと思います。洛南中学は真言宗の東寺の境内の中にある私立中学ですから、ここで氏が同校の中学生に対し仏教を中心とする宗教教育の授業を行ったことは、憲法上全く問題ありません。学校も承知した上でのことですね。また豊かな情操を育(はぐく)むために宗教教育が大切であり、有効であることも、基本的には賛同いたします(宗教・宗派の教えの内容にもよりますから、一般論としての話です)。

 しかし、だからといって公立の小学校や中学校の義務教育の課程や公立高校での授業の中に宗教教育を導入することについては大きな疑問があると言わざるを得ません。私自身は少なくとも反対の立場です。その理由は、何といっても先に述べた「信教の自由」、「国からの自由」に反するからです。これこそ憲法違反となる可能性が極めて高いと存じます。

「客観的に“宗教の大切さ”を教えるのであって、特定の宗教・宗派の教義や価値体系に偏向しないように教えれば問題ないのではないか」と推進論者は言うかもしれませんが、それでも問題です。また客観的に全宗教の紹介をしたり、その価値体系を教えたり、ということが現実に可能だとはとても考えられません。さらには教師も人間です。人によって個性もあれば信条や信仰も異なります。第一教科書はどうするのでしょう。こういった諸点を考えただけでも公教育(特に義務教育)に宗教教育を導入する意見を安易に肯定すべきではないと存じます。国や地方自治体も、現在のところそういう考えは持っていないと存じます。少なくともそうあってほしいと願っています。戦前戦中の国家神道が国教化されていた時代の国の教育を思い出してください。むしろ年輩の方のほうが、国が思想・宗教教育に介入したときの弊害(へいがい)はよく理解されているのではないかと存じます。宗教教育を求める識者は、もちろん戦前のような極端な国粋的教育とは全く違うあり方を想定しているのでしょうが、それでも公教育の場で宗教教育を行うことは「国からの自由」に反するという点では同じだと思うのです。

 くどいようですが、私は決して宗教の大切さを教える宗教教育の重要性を否定するのではありません。大切だと思うのです。でもだからといって公立の小・中・高校等、義務教育を中心とする公教育の場で、宗教教育を行うことは肯定し難いのです。

 それだけに、各ご信者の家庭やお寺、御講参詣を通じての佛立信心の教育が大切であり、そうした信心教育によって子弟の育成・法燈相続を確かなものとする努力が求められているのだと存じます。

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