―「原理主義」に陥(おちい)らぬよう―

 

○「原理主義」について

 

 前々回来「謗法を戒める―信仰の純正化」のテーマで2回にわたって記し、その(1)では「根本の謗法」である「妙法不信」について説明し、その(2)では「謗法の態様」について略説いたしました。(2)では、謗法に対する折伏に関して、まず最初に整理・区分しておく必要があるものとして、「信者(宗内)」と「宗外者」とがあり、これを混同してしまわないように注意するべきである旨申しあげました。宗外者はもともと謗法の人ではあるものの、それは致し方のないことであり、むしろ教化して正法に帰入せしめ、真の幸せへと導くべき人であるのに対して、信者は既に入信し、妙法に帰依(きえ)した人だからです。「信仰の純正化」というのは、主として信者を念頭に置いたものであり、例えば宗風の各号、特に第4号(決定[けつじょう])の「妙法に一心帰依」とか、同第3号(止悪[しあく])の「習損[ならいそんじ]を戒め、謗法を折伏する」等は、当然ながら「信者を対象」とするものなのです。

 

注意を要する例として、親は強信者(ごうしんじゃ)であっても、当人は「ご信心から離れていた信者の子弟」を挙げましたが、同様のことは「宗外から信者に嫁いできた女性」等にも申せます。「信者と結婚した以上あなたも信者だ」という思い込みや決めつけは要注意です。そういった子弟やお嫁さんに対しては、むしろ宗外者を教化し、育成していくのと同じ姿勢で臨むべきではないかと存じます。

 

一概には申せませんが、家族・親族や、周囲のご信者にもそういう配慮が求められているのではないでしょうか。こうした場合、無意識のうちに「あなたも信者だ」と決めつけて、ややもすると信者に対するのと同様の視点で折伏をしてしまう例もあるようで、そうなると思いがけない無用の反発を誘発してしまうことにもなりかねません。むしろ「宗外者と同じなのだから」くらいに思い、「これから教化育成だ」という姿勢で臨んだほうが失敗が少ないように存じます。

 

 さて、今回は「謗法を戒め信仰の純正化の努力をする」ことが、誤って「原理主義」に陥らないように、というテーマです。

 

 そこでまず、いわゆる「原理主義」とはどういうものなのかを概説しておきます。

 ご承知のように米国での同時多発テロ事件が発生して以来、「イスラム原理主義」という言葉があらゆるメデアを通して私達の耳目に触れるようになりました。この「原理主義」(ファンダメンタリズム)というのは、概して「何事であれ、一つの原理原則を金科玉条(きんかぎょくじょう)と決め込んで、それを他者に向けて強硬に主張する」というあり方だとされます。また、その共通の特色として、その内部では自分達の主張が「原理主義」だとは考えていません。例えば『コーラン』を絶対視し、そこに記されている通りのことを現代にも実践・実現し、それ以外の社会現象のすべてを否定しようとするのが「イスラム原理主義」ですが、当のイスラム原理主義団体の側には「イスラム原理主義」という言葉はありません。言葉すら無いということは、当然その自覚もないわけです。

 

 東京外国語大学教授(比較宗教学)の町田宗鳳(そうおう)氏は近著の『なぜ宗教は平和を妨げるのか』(講談社+α[ぷらすあるふぁ]新書)で次のように記しています。

 

〈すべての信仰には、それぞれ独自の「宗教の原理」があるが、それは個々の宗教を特徴づけるものであって、決して有害なものではない。(中略)「宗教の原理」が問題となるのは、それが柔軟性を失って、硬化したときである。(中略)

 信仰が純粋であればあるほど、異教の「宗教の原理」との心理的境界線が太くなり、まるで異人種でもあるかのように異教徒を見はじめる。それがいわゆる原理主義であるが、信仰の異なる者に対して排他的になり、やがてその立場を暴力的にでも否定しようとする〉(同書162頁)

 

 また解剖学者・養老孟司(たけし)氏も近著『いちばん大事なこと』(集英社新書)の中で次のように言っています。

〈環境問題について、これまで私が発言したくなかった理由の一つに、環境問題の活動家たちのあいだに「環境原理主義」とでも呼ぶべき思想があったことがある。たとえば、グリーンピースという世界的な環境保護団体がある。かれらはクジラを絶対に食べるなという。(中略)それなら増えすぎたクジラは食べてもいいじゃないかと思うが、そういう話は通じない。(中略)

 かならずしも予測が可能ではないこの世界では、「絶対」ということはありえない。(中略)現代社会で私が不安に思うのは、そこの理解である。たとえば宗教が提示する「絶対」に従う人間があんがい多い。宗教上の原理主義はそれである。近年ではオウム真理教の問題がそれだった〉(同書48頁~49頁)

 

○比較不能な価値観の対立と原理主義

 

 東京大学法学部教授(憲法学)長谷部恭男(やすお)氏は、最新刊『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書)で次のようにいいます。

 

〈人生の意義にかかわる二つの根底的な価値観、たとえば2つの異なる宗教は、両方を比べる物差しが欠けているという意味で、比較不能である。それぞれの宗教は、それを信奉する人にとっては、その宗教こそが最善の宗教である。2つの宗教の価値を比べる物差しはない。(中略)

 比較する客観的な物差しのないところで、複数の究極的な価値観が優劣をかけて争えば、ことは自然と血みどろの争いに陥りがちである。それぞれの人生の意義、宇宙の意味がかかっている以上、たやすく相手に譲歩するわけにはいかない。しかも、人の能力はさほど異なるものではなく、一方の陣営が必ずしも圧倒的な優位に立ちうるわけではない。宗教の対立が戦争を生み出しがちなのは、自然なことである。

 哲学者のリチャード・ローティは、旧ユーゴスラヴィア等で民族や文化の対立が内乱を引き起こすとき、対立する者同士は、相手をそもそも「人間」とみなさない傾向があると指摘する。ボスニアのセルビア人にとって、ムスリムはもはや「人間」とはいえない。自分たちが人間として生きる上でこの上なく大切だと思う文化や価値を重んじない人間が現れれば、それを自分たちと同じ「人間」として扱わないということも生じうるであろう〉(同書55頁~57頁)

 

 このような「価値観の比較不能性」が持つ意味をよく理解すれば、まず求められる課題は〈宗教的にも、哲学的にも、また道徳的教理の点でも正義と公正にかなった社会を確立すること〉であり、〈そして、これが課題として意識されるにいたった背景には、宗教改革とそれを発端とする宗教的寛容に関する論争がある〉(同書187頁)

とあります。

 

 実は西欧の宗教戦争に対する反省に基づく、「価値観の比較不能性」を踏まえた「宗教的寛容」の思想こそ、立憲主義に相当する発想の基点の一つだとされています。だからこそ、日本国憲法も「信教の自由」を厳格に保障し、宗教に対して国及びその機関が中立・公正であり、宗教が国家権力から自由であることを明定しているわけです。

 

先程来、少々難しい引用をしていますが、全体としてご理解いただきたいのは、まず第1に、宗教には元来原理主義的な要素が内在していること、しかし、そのこと自体は決して有害なものではなく、むしろ個々の宗教を特徴づけるものだということです。しかし第2、にそうした宗教の原理が硬化し、柔軟性を失い、尖鋭化して、他者に対して排他的、暴力的になる(オウム真理教やイスラム原理主義、キリスト教原理主義等がその例)とこれは大きな問題となります。そして第3に、こうした宗教的原理主義が政治・経済の原理や民族の原理と結び付き、さらに権力と結び付いた場合には、紛争や戦争さえ引き起こしかねません。そうした危険から市民を守るための制度が、立憲主義であり、信教の自由の保障であり、政教分離原則なのです。国家権力の宗教に対する中立性・不介入や、政治的な権力と宗教との分離が求められる原点はここにあります。この背景として第4に、「価値観の比較不能性」(例えば思想や宗教や文化の価値の優劣を計る客観的な物差しは無いこと)に基づく「宗教的寛容」(他の宗教の存在を互いに容認しようとすること)も、権力側には強く求められているということも理解しておく必要があるのです。

 

○当宗の謗法観―原理主義との対比

 

では当宗の謗法観とはどういうものでしょう。開導聖人の御指南には、

 

○「法に背(そむく)を謗と云(いう)也」

(このシリーズで引用。扇全1423頁上欄)

 

○「仏祖の御意(みこころ)に背(そむ)く事をすればみな謗法也と知るべし」      (扇全774頁)

 

とあるごとく、基本的に「妙法に違背すること」また「妙法(正法)を正しく教導された仏祖のみ教えに背くこと」はすべて正法を謗(そし)る「謗法」なのです。なぜなら妙法こそこの全宇宙の真理であり、生命であり、唯一根本のみ仏であり、全ての諸仏諸天善神を包摂する絶対の理法だからです。この妙法に帰依し、信奉する佛立信徒にとっては、妙法こそが唯一絶対・最高の教えです。唯一絶対の仏であり教えである以上、これを信受すべきであり、それができなかったり、その教えに違背するあり方は、当然すべて謗法だということになります。これがいわば当宗の謗法観の根本です。ここには当然ながら佛立宗としての「宗教原理」が存在します(例えば「佛立開講150年奉賛歌」の歌詞・参)。

 

 しかし、町田氏も指摘するように、宗教は元来独自の宇宙観、世界観、価値観を有するものであり、真理の体系を持っていて、それが絶対のものであると主張するものです。むしろ、そうした教義体系は各宗教の独自性を特徴づけるものであって、それなしには宗教としての一宗の存在意義も認め難いとも申せます。

 

 各宗教の価値の優劣を計る客観的基準がないため、国家権力等が宗教問題には介入しないのは当然といえば当然です。しかし、宗教・宗派間ではそうは参りません。各宗教が布教活動を行うにあたっては、当然ながら自宗・自派の優越性を主張します。当宗でいえば、宗外者に対する教化・折伏に際して、佛立宗の正当性や優位性を主張するのは、布教活動の一環としても当然なのです。ただその場合にも、次の諸点はよく心得ておく必要があろうかと存じます。

 

 まず第1に、既に一定の思想なり信仰なりを持っている人に対しては、一概に真っ向からそれを否定したり、「謗法で間違ったもの」だと決めつけたりしてしまわないことです。まずは一応そうした信仰や思想の存在を認めた上で、なおかつ、例えば、すべては妙法の真理の中に包摂されてしまい、すべては御題目にこもるのだから、その他に別の教えを信奉する必要はないのだ、といった方向で説得する必要があります。

 

 第2に、それでも、論理的・教義的な面での説得には限界があります。それは先に記したように、各宗教は独自の教義体系を有していて、その客観的な優劣を決定する共通の物差しはなく「比較不能」であるため、異なる宗教間ではいわば「議論の土俵」そのものが異なっており、いわゆる「水掛け論」の応酬となってしまうからです。「教義的な論争(法論)は不毛だから、むしろ客観的・具体的な事実(現証)の説得力を重視し、これで勝劣を決せよ」という先師の教えは、こうした法論の不毛性を踏まえたものなのです。当宗が「現証」を重視し、「現証布教」を大切にする理由もここにあります。

 

 第3に、たとえ相手が反発しても、それでも何とか助けたいと思う心や姿勢が求められます。反発や攻撃に対して怒りの心を起し、こちらも反撃するということは許されません。教化折伏は慈悲に基づく菩薩行だからです。それなのに、こちらが正しいからといって、相手を正義に反する敵として攻撃したりすれば、それこそ「原理主義」に陥ってしまいます。それは慈悲を根とする「不軽流の折伏」ではありません。反発し暴力的な相手をも尊敬し、礼拝して、ついに正法に帰依せしめようと努力すべきだ、という姿勢が求められているのです。み仏も、不軽菩薩も、蓮・隆・扇三祖もみな暴力的な迫害や弾圧を受けられましたが、決して暴力的な応酬はなさっておらず、むしろ迫害を加えた人たちを「善知識(ぜんちしき)」(自身の信仰を高め、導くもの。よき教師の意)だと受けとめておられるのですから。

 

 国家が各宗教に対して介入せず、中立を守ることを求めることの基礎となった「宗教的寛容」は経験に学んだ極めて大切な思想です。しかし、これは各宗教間ではそのままではありえません。各宗教が自宗以外の宗教を「そのまま是認する」とすれば、自宗の独自の存在価値もなくなってしまうことにもなるからです。無論そこでは「折伏」も必要ないことになってしまいます。そういう寛容さは、誤りをもそのまま正すことなく是認し、目をつむって受容していく、いわゆる「摂受(しょうじゅ)」になってしまいます。これは信仰の純正化を大切にする当宗の呵責謗法(かしゃくほうぼう)・折伏の教えに反するものです。

 

 開導聖人は御指南に仰せです。

 

○「されば末法悪世には宗論問答何の詮(せん)かあらん。現証利益こそ御弘通の道也」

(開化要談・体・扇全13318頁)

 

○「経力を以て諸宗の学匠に勝ち、利生を以て人を助くる経力宗也」

(開導要決・扇全27239頁)

 

 宗外者に対しては教義的論争ではなく、妙法の経力つまり現証利益という事実による折伏・説得が教化の直道(じきどう)であるとの御指南です。

 

 また宗内に対しては次のように仰せです。

 

○「信者互に懈怠、不参、不行儀等を責合(せめあ)ふが持戒(じかい)なるを、責(せめ)ずして彼が為(ため)の悪友となるをかたく謹みて、臆病(おくびょう)なく、にくまるゝ迄に実意(じつい)をもて責るは当宗の持戒なる事」

(百座一句・扇全14357頁)

 

○「瞋恚(しんに)をおこさず実非(じっぴ)を糾明(きゅうめい)して、ことおだやかに取り計らひ(乃至)互ひにいさめあひて云々」

(三組講頭披露異体同心教誡状・扇全2380頁)

 

 ご信者間で信仰の純正化のため折伏する場合であっても、相手を思う慈悲の心をもととし、真心をこめて折伏することや、「ことおだやかに取り計らひ」「互ひにいさめあ」うことが大切な心得だと仰せなのです。

 

 これは宗内外いずれを通じてもいえることですが、いくら正しいことでも、言葉荒く、怒りにまかせて相手をなじっては、相手は腹を立て、反発を招くばかりで、それでは折伏も通りません。これは折伏の失敗という他はありません。開導聖人も、そんな折伏は「折伏の仕損じ」だと仰せです。やはり、信者間での謗法の折伏も、時と場所や状況をよく踏まえ、無用に相手を傷つけず、相手が得心し、腑(ふ)におちるよう、慈悲の心でさせていただくことが大切なのです。

 

○「人をうらめば我に罪あり。他を助くれば我に福あり。因果応報とは是なり」

(人を拝むに慈悲深かれの事・扇全1721頁)

 

との御指南もあり、また高祖日蓮大士の御妙判にも次のように仰せです。

 

○「かゝる重病をたやすくいや(癒)すは独(ひと)り法華の良薬(ろうやく)也。只(ただ)須(すべから)く汝(なんじ)仏にならんと思はゞ、慢(まん)のはたほこ(憧)をたをし、忿(いか)りの杖(つえ)をすてゝ、偏(ひとえ)に一乗に帰(き)すべし。(乃至)上根(じょうこん)に望めても卑下(ひげ)すべからず。下根(げこん)を捨(す)てざるは本懐(ほんかい)也。下根に望めても(きょうまん)ならざれ」

(持妙法華問答抄・昭定278頁)

 

「末法現代の衆生はすべて貪瞋癡(痴)[とんじんち]の三毒の重病に苦しむ定業堕獄(じょうごうだごく)の凡夫である。こんな重病を癒すことができるのはただ御題目という良薬だけなのだ。どうかあなたも慢心や忿怒(ふんぬ)の心を捨て、妙法に帰依されよ。(中略)自分より優れた人に対して卑屈(ひくつ)になったり、劣った人だからといって傲慢(ごうまん)になったりしてはならない。救い難く度(ど)し難い人を救済することこそがみ仏の本懐であり、私達の第一の願いなのだから」、とのお心です。

 

こうしたみ教えのおこころを常に忘れないで宗内の信仰の純正化に努め、宗外者の教化折伏に臨ませていただけば、当宗の「謗法に対する折伏」が間違っても原理主義に陥ることはないと存じます。

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