久遠の水脈
2014年12月9日(火)
 

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門祖聖人・開導聖人の歴史に触れながら、

法華経の正しい教えを知ることができる一冊 

観心本尊抄 修学
2014年12月9日(火)
 

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お祖師さまの大切な御書「観心本尊抄」、

その教えを深く知るための一冊

㉕「御講」こそ弘通の根幹
2014年12月3日(水)
 

―「御講から弘まる」「弘まる御講」―

 

 

○佛立開講150年を期し「御講の改良」を

 

前回は「好きこそ物の上手」のテーマで、信行を好きになることの大切さについて記し、あわせて「物事の上達はかけた時間に比例する」という松岡祐子氏(「ハリーポッター」シリーズの翻訳者)の「祐子の第一法則」や、「将来に向かっての楽しみ(志願〈しがん〉)を持つ」ことの大切さについても触れ、お役中はその平生のご奉公において、自身はもとより、一般ご信者の育成においても、こうした姿勢や方向性を忘れないようにして教え導いていただきたい旨申しあげました。

 


さて今回のテーマは「御講」です。

 申すまでもなく当宗は弘通集団であり、そのいのちは「妙法弘通」です。そしてその弘通の根幹が他でもない「御講」なのです。

 この「御講」が当宗にとっていかに大切なものであるかについて開導聖人は御教歌・御指南等で随所に仰せですが、そのいくつかを頂戴しておきます。

 

題・日蓮大士(だいじ)の御弟子旦那(おんでしだんな)と申すこゝろいかにと人のいひければ

御教歌
御弘通の御奉公とて外
(ほか)になし

      御講まゐりや又つとめたり

(講場必携・完・「妙法弘通」の段・扇全14192頁)

御教歌
講中
(こうじゅう)と成(なっ)

   御講へ参らねば

  講の外(そと)なる人とかはらず

(開化要談・用・扇全13430頁上欄)

御指南

○「我も唱へ人にもすゝむる道は御講を第一のご奉公となす。」

(冨木入道殿御返事お書入・扇全26183頁上欄)

○「当今(とうこん)の如説修行とは我も唱へ人にもすゝむる也。

  真実御弟子旦那の御奉公とは、我も御講を勤め、人の家にも参詣するが御弘通となる也。」
(講場必携・完・扇全14巻197頁)

 

 因みに現在の当宗の宗内法規(宗制)の中でも最高規範とされる「宗綱(しゅうこう)」と「宗法」にも次のように定められています。

「本宗は、御講を弘通及び信行錬磨(れんま)の道場とする。」

(宗綱第12条「御講」)

「御講は、弘通及び信行増進、人格向上の道場である。」

(宗法第21条第2項)

「本宗の信徒は、進んで御講を勤修(ごんしゅ)し、努めて助行に参加して、教化弘通にはげまなければならない。」 

(宗法第23条)

 

 既にご承知のごとく、当宗は平成18年にお迎えする佛立開講150年を期して、昨年来、「御講から弘まる」をスローガンとしてその奉讃ご奉公を進めさせていただいており、昨年(平成15年)10月には宗務本庁に奉賛局も設けられていよいよ本格的なご奉公が進められつつあります。このことは講有上人の今年の『年頭のことば』にも、次のごとく示されています。

〈さて本宗は、開導日扇聖人による安政(あんせい)4112日のご開講から数えて、来る平成18年に150年の記念すべき年を迎えます。

 ご開講は、末法時機相応の妙法五字をもって一切衆生を救済せん、との大慈大悲のご奉公であります。この時にあたって、全宗門人は今(いま)一度ご開講の本旨(ほんし)を再確認し、一層ご弘通に精進(しょうじん)しなければなりません。

 本宗では昨年来、「御講から弘まる」とのスローガンを掲げ、宗門をあげての「御講の改良」を期しております。

「御講から弘まる」―これはご弘通の原点は御講であり、御講こそ信心増進、信行錬磨(れんま)、弘通意欲高揚(こうよう)の道場であることを端的(たんてき)に示すものです。本当の「弘まる御講」にするためには、まず教務諸師が今まで以上に御法門の研鑽(けんさん)に努め、行学二道(ぎょうがくにどう)に精励(せいれい)しなければなりません。またご信者も、御講の参詣に一層励むことが、御講の改良の基本となるのであります。(後略)〉(平成16年『年頭のことば』部分)

 

○ご開講の目的(本旨)と御講の本義

 

 佛立開導日扇聖人が安政4年(1857)1月12日に最初の御講を奉修され、当宗をご開講されたその目的は「宗祖出世(しゅっせ)のご本懐、上行所伝の御題目を広宣流布せしめんが為」(万年永続繁昌記・扇全6巻82頁)でした。したがって「御講」は、法華経本門の久遠(くおん)のみ仏・蓮隆両祖のご本意である「妙法弘通による末法の一切衆生の救済」のための「弘通の道場」であり「信行錬磨(れんま)の道場」なのです。これこそ御講の本義に他なりません。

 

 開導聖人は「御講席は派出所の如し。弘通処也。折伏教化の所也。講内信者の参詣は御弘通の御奉公也」(御講緊要・扇全17334頁)とも仰せです。

「派出所」の意は、根本道場たる本山や各寺院は常設の道場であるが、ご信者宅でも御講席となればその時はその席が道場となる、との意です。これは他のご信者のお宅を借りての御講でも基本的に同じです。

 なおご開講について付言すれば、開導聖人は次のごとく仰せです。

「これは八品堂(はっぽんどう)の席 第一はじめの御講聴衆四人也。後此講(のちこのこう)万人(まんにん)を以て数(かぞえ)んずと思ひおきてたり。」

(清風一代記略図・扇全5202頁)

 このご開講の御講席は、当時の京都の新町蛸薬師(たこやくし)下ル西側(現・京都市中京区錦小路(にしきこうじ)上ル百足屋(むかでや)381番地)の千切屋(ちぎりや)・八品堂・谷川浅七(たにがわあさしち[]宅でした。参詣者は谷川氏夫妻を初め4人とも6人とも記されています。

 

 ちなみにこのご開講の地は、昭和60年に当宗が求めて入手し、昭和61年3月28日に、時の講有であられた第18世講有日地上人の導師のもと「開講聖地(本門佛立宗開講聖地)奠定(てんてい)式」が執行され、「開講聖地」として正式に定められ、以来荘厳管理されています。余談にわたりますが、当時筆者も総務局で主事のご奉公をさせていただいており、当日、本山宥清寺に格護されていた「開講の御本尊」を堀田承要師と共に聖地までお供し、奉安させていただきました。そういうわけで「開講の御本尊」を間近で拝見させていただいたのですが、護持者の氏名は「谷川浅七郎」と記されておりました。もっとも「郎」というのはいわば「男子」の一般的な呼称ですから(例えば「源九郎義経[くろうよしつね]」の「九郎」は、父・義朝[よしとも]の九番目の男児の意)、開導聖人当事にあっても「郎」は省略しても差し支えなかったかと存じます。現に開導聖人も、ご承知の上で、御指南等では「浅七」と記されておいでです。

 

○当宗信行のすべてがこもる御講の大切さ

 

―悦んで勤修・参詣を―

 御講には、口唱、祈願、回向、大恩報謝、布施供養、御法門聴聞(ちょうもん)、奨(将)引、育成、法燈相続、教化等、当宗の重要な信行ご奉公のすべてがこもっています。この御講の重要性をまず再認識し、奉修と参詣の両方に精一杯尽力し、心を尽くすことが大切なのです。

 開導聖人は御指南に仰せです。

「我もつとめて 他参もか(欠)けず

○御講 他参せず   我つとむ

    我つとめず  他参する

 他をさそふあり さそはぬあり

 チラ  参り  勝手づとめ

   (乃至)

 されば弘通広宣を思ふ信者、当講繁栄を思ひて御講の為に心を尽(つく)し参詣をもして人に勧(すす)め云々」

(三界遊戯抄三・扇全6巻372頁)

○「悦(よろこ)んでつとめ 悦んで供養す。

   悦んで参詣し 悦んでう(受)くる。

 此の一事を常にかへりみよ。」

(要法は根本本地なる事・扇全1783頁)

 

○まずお役中から率先改良を

 

 当宗のいのちは妙法弘通による衆生救済であり、当宗は弘通集団です。その当宗の根本こそ御講であり、御講こそが当宗信行の根幹なのです。その御講のあり方は、何といってもまず、お教務とお役中の姿勢や努力、熱意にかかっています。「弘まる御講」となるよう、まずお役中から率先して各種の御講参詣・御講奉修に励み、奨(将)引にも努めさせていただくことが大切なのです。

 御講がご弘通の源(みなもと)であり、ご弘通の力となるよう改良・精進させていただきましょう。

 

※付 記

 なお「御講」に関連するものとしては、この「新役中入門」のシリーズの中でも既にいくつか触れています。その主なものを次に記しておきますので、参照していただければ幸甚に存じます。

◎「参詣の大事」(1)(2)(3)……シリーズ通番⑤~⑦(平成14年5月号~7月号)

(1)は「お寺参詣・御講参詣の大切さを知る」

   ※「道場の能所(のうじょ)」について

(1)は「参詣の要素」……「親近(しんごん)

(3)は「参詣の要素」……「給仕」

◎「懺悔(さんげ)の大事」(1)(2)……シリーズ⑬⑭

(平成15年1月号、2月号)

 御講で拝読する『妙講一座』の「五悔(ごげ)」の御文の概略等

◎「稽古(けいこ)の大切さ」(2)……シリーズ⑰

(平成15年5月号)

 特に、御講の参詣奨(将)引やご披露について。

㉔好きこそ物の上手
2014年11月19日(水)
 

―物事の上達はかけた時間に比例する―

 

○「好きこそ物の上手なれ」

 

前回は「妙法こそ大良薬(だいろうやく)」―色香美味(しっこうみみ)と五感(ごかん)の共働(きょうどう)―というテーマで、法華経如来寿量品第十六に説かれる「良医病子(ろういびょうし)の譬(たとえ)」を紹介しつつ、六根互用(ろっこんごゆう)・五感の共働について解説し、妙法五字が「色香美味 皆悉具足(かいしつぐそく)」たることを信心によって感得させていただくことの大事を記しました。

 今回は「ご信心の上手」になるには「好きになる」ことが大切で、そのためにはやはりこつこつとした「積み重ね」や「努力」がまず大切だということを申しあげたいと存じます。

 

さて「好きこそ物の上手なれ」とは人口に膾炙(かいしゃ)した諺(ことわざ)ですが、これを「ことわざ辞典」などでみると次のようにあります。

「好きこそ道の上手」「好きは上手の本(もと)」ともいう。好きであることが物事の上達の極意(ごくい)だということ。一方で「下手(へた)の横好き」など水を差すような諺もあるが、それにしても嫌いで上手になることはまずない。

 一般にどんな物事でも、好きになると関心が深まり、それに割(さ)く時間も長くなり、結果として腕前もあがるものである〉。(『岩波ことわざ辞典』)

〈技術を身につけるにはまず身を入れて修練に時間を注(そそ)ぐ必要があるが、好きなら身が入るだろうし、時間のやりくりにも一生懸命になるもの〉。(『ことわざの智恵』岩波新書・別冊)

 なるほど言われてみればその通りで、何でも上達する為には、身を入れ、時間もかけて続けることが基本です。好きになればそれが苦にならずにでき、そうなると上達も早く、尚張り合いも出て一層身が入る、という善い循環が起こり、ますます上達することになります。

 

 開導日扇聖人は御教歌に仰せです。

 御題・雨降りは車で参詣といふ

御教歌

 何事もすきこそ物の上手なれ

   いのちをさへにをしまざりけり

○御法にとりては此人仏祖のみこゝろに叶ふもの也。

(開化要談九・扇全13巻239頁)

 私共の信行ご奉公の上にも同様のことが申せるわけです。

 因みにこの御教歌・御指南等は明治22年の御筆です。

 御題の「雨降りは車で参詣といふ」とあるのは、後の御指南と合わせて少々説明がいるかと存じます。当時はもちろんどこに行くにも自分の足で歩いていくのが当たりまえの時代です。ところがその日は参詣しようにもひどい雨。まだ道路も舗装などされておらず、道は泥々にぬかるんでおり、しかも着物姿です。参詣ともなれば、衣服もきちんと改めて参るのが当然でした。そんな姿で泥道を歩いて参詣することは、現代の私達にはちょっと分からない無理があったのです。それでも何としても参詣をしたい。それで思い切って人力車を奮発してでも参詣したというのです。

 

 現代は車社会ですし、公共の交通機関も発達しており、道路もほとんど舗装されていますから、「雨が降ったら車で」というのも、まあ当たり前のように感じますが、当時は全く状況が異なっていたのです。貧しい時代の庶民です。平生はあらゆることに随分節倹しているのです。そんなご信者が、参詣ご奉公の為ならと思い切って人力車を雇ったのです。

 それでこそ「御法にとりては此人仏祖のみこゝろに叶ふもの也」との後の御指南のおこころが理解できます。信行ご奉公の為なら、雨や遠さはもとより、さしずめ何千円といった足代もいとわない。ご信心が好きで、参詣せずにはいられない。とにかくどうぞしてやりくりする。自然に「信心第一」となっているわけで、こういうご信者こそが仏祖のご本意に叶い、ご守護もいただくのは当然といえば当然です。

 

 

 

 

 また御教歌の下の句には「いのちをさへにをしまざりけり」と仰せですが、これも世法のことでいえば、例えば釣にせよ、ゴルフにせよ、登山にせよ、本当に好きになってハマッてしまうと、どれほど忙しかろうが、疲れていようが、寒暑も天気ももののかわ、費用も危険も顧みず、とにかく無理からでも何とか工夫・算段をつけ、嬉々(きき)として出かけます。現にウソをついて会社を休んでまで日本シリーズを観戦したり、命がけてドブ川に飛び込んだ野球ファンが少なからずあったことと思い合わせれば、これも時代を超えて通じることだと申せます。傍からは酔狂としかみえなくても、当人にとってはこれ以上の愉しみはなく、それがまたストレス解消、元気の源ともなっているわけで、もうそこには理屈も損得勘定もありません。習い事などでそうなると、当然上達もし、それが嬉しくて更に身が入ることとなります。これが信行の上でなら文字通りの「不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)」(寿量品)の姿です。


○「物事の上達はかけた時間に比例する」

 

 松岡佑子(ゆうこ)さんといえば、超一流の同時通訳者で、日本の出版史上空前の大ヒットとなった「ハリーポッター」シリーズ(日本語版)の翻訳・出版で一躍有名になった女性ですが、この方があるテレビ番組(「はなまるカフェ」平成141029日放送)にゲスト出演した際の言葉が今も強く印象に残っています。ちょうど同シリーズの第4巻(上下)が刊行され、上下2冊で1セットであったにもかかわらず230万部が売れた頃でした。(なお原著者の英国人女性、J・K・ローリングさんが、同書が世界60数カ国で翻訳・出版されたこともあって、過去1年間の収入が230億円に達し、英国の長者番付の上位に入ったというニュースも最近流れました。)

 

 松岡さんは、実は国際基督教大学での専攻は日本史だった由です。ただ英語の発音が以前から好きで、それでずっと英語の勉強は続けていたのだそうです。

「印象に残った」というのは、番組司会者との次のようなやりとりでした。

 司会者…「どうすれば私達も英語が上達できるのでしょう。何か秘訣(ひけつ)は?」

 松岡氏…「語学に近道はありません。『佑子の第一法則』というのがあるんです。それは『物事の上達はかけた時間に比例する』というんです。失礼ですが、大変お忙しいお仕事の中で、英語の学習にどれくらい時間をお割(さ)きになれますか?」

 松岡さんは、以前から英語の音が好きだったとはいえ、ここまでになるには、やはりそれだけの時間をかけ、努力を積み重ねてきたのです。やはり一流の人の言うことは違うと思いました。

 

 開導聖人は別の御指南に仰せです。

「手習(てならい)する子に遊ばしてくれと云(いう)と、ちとやすめと云との二筋(ふたすじ)あり。

 信者口唱に二筋あり。

口唱をたのしむものと

いやがるものとあり。

諺曰(ことざわにいわく)、すきこそ物の上手なれ 真実の御弟子旦那云々」

 (如説修行抄御文段並略註・扇全9巻392頁)

 同じお習字・勉強でも、すぐに嫌になって「遊ばせてくれ」という子と、先生の方が「そんなに根をつめず、ちょっと休んだらどうか」と言うほど夢中になる熱心な子とがあるが、ご信者にも口唱信行の好き嫌いの二筋がある。願わくは信心を好きになれ。それでこそ本当の如説修行のご信者といえるのだから、とのおこころです。

 

 また別の御指南には次の如く仰せです。

「折伏修行に御利益と云(いう)褒美(ほうび)あり。諺曰、たのしみなくてはつとまらぬと。今、本門の信者も御弘通と浄土参拝の志願(しがん)あるによりて、今日(こんにち)のいとなみもものうからず。又今日無事達者にて暮らすも、口唱信行の御蔭也と喜べり。」

(開化要談九・扇全13巻240頁)

 

 お互い、できることなら最初から信行ご奉公を好きになれればそれに越したことはありません。しかし、もしそうでなくとも、まずコツコツと参詣や口唱等の信行に努め、それを積み重ねていけば、そんな中でいつしか興味も深まり、次第に楽しみも感じられるようになって、だんだんに好きになっていくものです。するとまたお計らいも感得して徐々に信心が上達していくのです。また同時に、お計らいを楽しみにして努力していくということも大切ですね。

 

 お役中は、自分のお役のご奉公についてこうしたあり方なり、方向性を持って努力していくことが大事であり、また受け持ちの一般ご信者を育成していく上でも、同様の姿勢で教え導いていくことも考えていただきたいと存じます。

 

 ―色香美味(しっこうみみ)と五感(ごかん)の共働(きょうどう)―

 

良医病子の(ろういびょうし)譬(たとえ)〈法華経如来寿量品第十六〉

 

 前回では、凡夫の欲が貪欲(とんよく)に趣(おもむ)くことによって自他を共に苦しめることのないように制御・抑制する智慧としての「少欲知足(しょうよくちそく)」の教えの大切さを中心に記し、その一方で、自他の真の幸せを求める向上心(真実の大法を求め、自他の成仏を期する大乗の菩薩の心)を持たず、努力もせず、ただ小法に甘んじてそれでよしとする二乗(声聞〈しょうもん〉と縁覚〈えんがく〉)のあり方は「少欲懈怠(しょうよくけだい)」であり、それは卑屈と慢心とが同居し、その間を揺(ゆ)れ動く心として誡(いまし)めねばならないことも申しあげました。

 お役中は、願わくはそのご奉公においてもこの少欲知足の教えを大切にさせていただくと同時に、少欲懈怠とならぬよう注意していただきたいと存じます。

 

 さて今回は、法華経如来寿量品第十六に説かれる有名な譬喩(ひゆ)「良医病子(ろういびょうし)の譬(たとえ)」を紹介しつつ、中でも特に「此大良薬(しだいろうやく) 色香美味(しっこうみみ)」 皆悉具足(かいしつぐそく) 汝等可服(にょとうかぶく)」(此[]の大良薬は色香美味、皆悉〈みなことごと〉く具足せり。汝等服すべし)の御文の意について学ばせていただきたいと存じます。先に申しておきますと、「此大良薬」とは他でもない私どもがいただく上行所伝の御題目のことであり、「皆悉具足」とは万法具足のこと、「汝等可服」は信唱せよということなのですが、「色香美味」とあって、色も香も味わいも優れているという御文については、どのように感得させていただくべきなのか、この点について少し詳しく触れたいと存じます。

 

 いずれにせよまず「良医病子の譬」(開結424426頁)の概略を紹介しておきます(この譬喩は、いわゆる「法華七喩〈ほっけしちゆ〉」の一つで「良医の譬」「良医治子(じし)の譬」等とも称されます)。

 

 ある所に最高の名医がいた。多くの子息がいたが、父の他出中に愚かにも誤って毒薬を服し、毒に中(あた)って悶(もだ)え苦しんでいる所に父が帰宅した。驚いた父は最高の処方によって毒消しの妙薬を調合し、子に与えて言った。「この大良薬は色・香・美味皆(みな)悉く具足せり。汝等服(なんだちふく)すべし。速(すみ)やかに苦悩を除(のぞ)いて復衆(またもろもろ)の患(うれえ)なけん」。

 

 すると多くの子の中でも軽症で判断力を失っていない者(不失心者)は素直に薬を飲み、すぐに回復することができた。ところが重症(毒気深入〈どっけじんにゅう〉)で正気を失い錯乱状態になってしまっていた者(失心者)は、判断力もおかしくなっていたため(心皆顛倒〈しんかいてんどう〉)、良薬を苦(にが)いと言って服さず、更に苦悩を増す有様だった。

 

 そこで名医は薬を飲ませるための一計(方便=巧みなてだて)を案じ、次のように言った。「私は老い衰え死も間近であるが、今からまた他国に行かねばならない。そこで是(こ)の好(よ)き良薬を今留(いまとど)めて此(ここ〉に在(お)く(是好良薬〈ぜこうろうやく〉 今留在此〈こんるざいし〉)。必ず服しなさい。きっとよくなるから」こう言い置いてから他出し、出先から使をやって「お父さんは死んだ」と伝えさせたのだ。

 

 父の死の報に接するや、錯乱していた息子たちも流石(さすが)に驚き悲しみ、「常(つね)に悲感(ひかん)を懐(いだ)いて心遂(こころつい)に醒悟(しょうご)し」(常懐悲感〈じょうえひかん〉 心遂醒悟〈しんすいしょうご〉……深い悲しみに沈むなかでやっと目が醒〈さ〉め、素直な本来の心を取り戻す意)父の薬が大良薬であることも分かって、素直に服したところ、さしもの病悩も皆癒(い)えた。そのことを聞き確かめた名医は再び帰宅し皆に見(みま)えた。

 

 概略以上のような譬え話ですが、この譬喩(長行〈じょうごう〉)の意を重説(じゅうせつ)する偈頌(げじゅ)が「自我得仏来(じがとくぶつらい)」から始まる「自我偈(じがげ)」です。この話の中の名医は久遠(くおん)のみ仏であり、毒を服んで苦悩する多くの子息が衆生です。中でも特に重症患者(毒気深入の失心者)が釈尊滅後末法の私共(三毒強盛〈さんどくごうじょう〉・定業堕獄〈じょうごうだごく〉・未下種〈みげしゅ〉の凡夫〈ぼんぶ〉)であり、今留在此(こんるざいし)の是好良薬(ぜこうろうやく)こそ滅後末法の衆生の為の妙法なのです。名医が方便で他国へ行き死んだと伝えるのは歴史上の釈尊(始成正覚〈しじょうしょうがく〉の仏)の入滅を意味し、実には入滅せず再び見(みま)えるのは、久遠のみ仏の寿命は実は永遠であり、従って釈尊としての入滅は方便のための涅槃[ねはん](非滅現滅〈ひめつげんめつ〉…滅に非〈あら〉ずして滅を現わす)であることを示すとされています。

 

「常懐悲感(じょうえひかん) 心遂醒悟(しんすいしょうご)」は、わけもなく親に逆らっていた子が、思いがけず、親の死に直面し、その悲哀の中でやっと素直な心を取り戻し、信心を起す姿を彷彿(ほうふつ)とさせるようで、そう思って拝見すると説得力があります。いつもそばにいて、疎(うと)ましくさえ感じていた相手も、もう会えないとなると急に寂しく懐(なつ)かしく思われるというのは、誰しも思い当たるところがあるのではないでしょうか。親のお葬式を通じて、意外に法燈相続やお教化ができることが多い理由の一つはここにあるとも申せます。

 

「色香美味皆悉具足(しっこうみみかいしつぐそく)」と「五感(ごかん)の共働」

 

 さて問題は「色香美味皆悉具足」の大良薬である御題目であるのに、私共末法の凡夫は、毒気深入[どっけじんにゅう](三毒強盛)で心が皆顛倒(てんどう)しており、正しい判断能力がなく、すべてさかさまな見方しかできなくて、苦(にが)くて臭いなどと感じ、素直に有難く服する(信じ唱える)ことが中々にできにくいということです。

 この点につき開導聖人は次のように仰せです。

 

題・妙法五字万法具足(まんぼうぐそく)

御教歌

 いろもかもめに見えずしてそなはれる ことは利生に顕れにけり

(開化要談・体・扇全13340頁)

御教歌お書添え御指南

「御供水(おこうずい) 白き水に見えれ共(ども) 色香美味(しっこうみみ)。妙法五字 黒き文字と見え 万法具足はみえず。

 何にても所願具足(しょがんぐそく)するをもて いろか顕(あらわ)るゝは事相(じそう)也」

 

題・絶待妙(ぜったいみょう)

御教歌

世の人を救ふ御法(みのり)のはす[(はちす)]の花 これにくらぶる色も香(か)もなし

(仏法大要・上・扇全1143頁)

 

末法の衆生を救うことができる南無妙法蓮華経の御題目・妙法五字にはみ仏のすべての功徳が具(そな)わっており、色も香りもすぐれ、他に較(くら)べるべくもない最高の御法であることは、凡夫には感知し難いけれども、現証(ご利生)によってそれと腑(ふ)におちる。これを感得すべく、まず素直に妙法を受持信唱させていただくことが大切だとの意です。

 

 御供水は、凡夫の目にはただの無色透明の水にしか見えないが、実は妙法の功徳水であり、色香美味である。御題目は黒い文字としか見えず、その五字七字の中に万法が具足していることは感見し難いが、ご利生という事実・形に対したとき、凡夫にもそれと感得できるのだと仰せです。「絶待妙(ぜったいみょう)」というのは相待妙(そうたいみょう)に対する語で、元来が絶対のもので他と比較相対できない、そういうことをもともと超越しているという意です。

 

 ただ、それにしても、では「色香美味」等はいわば単に譬えなのか、というと決してそうではありません。実はこれは言葉を超えたものであると同時に現実にその通りに感得し得るものなのです。そのことの理解の一助となるのではないかと思う一文を紹介しておきたいと存じます。

 

「この犬おいちいネ」

 

 これは『老いの発見3……老いの思想』(岩波書店・1987年)の中で鶴見俊輔氏が紹介している戸井田道三氏(能と伝統芸能の研究者)の、自身の「おいしい犬―幽玄(ゆうげん)」のメモに拠る文章の一節です。少々長くなりますが次の通りです(同書35頁・一部割愛)。

「昔、私の家に小さな犬を飼っていたことがある。友人が三つくらいの男の子をつれて遊びに来た。その子が小さな犬をダッコしてひどくかわいがった。『この犬おいちいネ』と彼は言った。かわいいという言葉をまだ知らなかったのかもしれない。その場の雰囲気や情況からいって『おいしい』というのはまことに適切であった。まわりにいたおとなどもは皆笑ったが、これ以上にうまい表現は不可能とさえ思えた。

 

 笑ったのは『かわいい』というべき情緒を味覚でいった錯誤(さくご)に対してであった。しかしおとなだってつねにそのような間違ったいいかたはしている。たとえば『苦(にが)みばしったいい男』とか『少し甘い女』などいくらでもある。但しこれは常用されているあいだに味覚の応用とは認められなくなった。やはり適切な言葉として容認されたのであろう。つまり視・味・嗅・聴・触などの感覚器官とそれに対応する言葉とをつなぐ回線がまちがった方が適切だという場合もありうるわけである。それが可能なのはいわゆる五感がひとりの身体に統一されているからで、五感の各々が別に感じられると同時に、いっしょに働いているからにちがいない。(中略)『この犬おいちい』などというのは、たしかにまちがいである。しかし、まちがえることによって分類以前の混沌(こんとん)にさかのぼることにはならないであろうか。混沌をつかまえるためには言語の明晰(めいせき)以前にさかのぼる必要があり、それがあるから身体の自発性が共感覚を刺激する作用をするのではないだろうか」(戸井田道三『忘れの構造』筑摩書房・1984年)

 

 幼児が「この犬おいちいネ」と言ったその言葉は、子犬の暖かさや匂い、柔らかな感触、たべてしまいたいような可愛さ等々、そのすべてを身(からだ)と心の全部でそのまま丸ごと受けとめ、感極まって発せられたものであり、文字通り五識六識が一体となった表現です。そういえば「痛い思い」「甘い言葉」「冷たい仕打ち」「暖かい色」などの表現は実際、無数にあり、すでに日常生活で何の違和感もなく自然に使っています。

 

 仏教では六種の感官能力を眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(に)の六根(ろっこん)とし、これによって六識(ろくいき)が生じ、色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)の六境(ろっきょう)を認識するとされますが、さらに「六根互用(ろっこんごゆう)」といって、各根が互いに他の五根の作用・能力を具することも説かれます。例えば鼻で聞いたり、味わったりもできるわけで「聞香(もんこう)」という言葉もあります。通常の感覚器官は五根(眼・耳・鼻・舌・身)で、これが色・声・香・味・触を感じ認識・識別しているのですが、音や香りや味に色を感じることも決して不思議なことではなく、実は五感が共働し、一体となって、言葉によって分類される以前の本然(ほんねん)のものを体全体で感得することも、私たちにはできるのです。

 

 確かに通常、御題目は眼には黒い文字にしか見えず、御供水は無色透明の水としてしか認識できませんが、ご利生をいただき、歓喜の心で唱え服(ふく)するときは、御題目は輝き、御供水は匂いたつ甘露(かんろ)だと感得させていただくこともできるのです。

「此大良薬 色香美味 皆悉具足」の御文を真の意で感得させていただくには、やはり素直な「柔和質直(にゅうわしちじき)の信心」が要(かなめ)となるのです。

 

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   例年通り、裏庭のホトトギスが咲きました。ウチのは台湾ホトトギスではないかと思ってます。台風が襲来したりしてますが、季節はちゃんと進んでいるのですね。金木犀も匂ってたし、黄色の彼岸花も終わりました。そういえば、昨夜(108日)は皆既月食だったですね。(J・M)

黄色のリコリスも咲きました。
2014年9月19日(金)
 

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 リコリス・オーレアだと思います。花の咲き方も違いますね。九州各地で咲いてます。(J・M)

 

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 無花果〔イチジク〕の「蓬莱柿」(ほうらいし)は、昔ながらの品種ですが、皮が剥きやすく、甘味と酸味が共に強くて、しかも種のプチプチ感がたまりません(もしかしたら最近、福岡ブランドとして売り出してる「とよみつ姫」〔皮が剥きやすく、甘味が強くて、普通は白い周りが黄色く、中の実の赤色が強く鮮やか。ケーキ屋さんでも人気〕は、蓬莱柿の改良品種かもしれません)。今年、蓬莱柿の苗木を1本入手して、鉢植えにしてたら、それでも、小さな実が成ってます。時期を見て鉢増しをします。

オリーブは、同時期に花の咲く、違う品種の木を2本は植えて受粉させないと実が成らない由だけど昨年植えたら、今年は両方で50個ほどの実が成ってます。この実は、どうするのがいいのかな?😄💦 青い実なら塩漬けにするのかな? 黒熟した実も塩漬けかな?(J・M)

≪上の写真が無花果の「蓬莱柿」
下の写真がオリーブ≫

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