仏教のススメ

㉑笑顔と喜びを大切に
2014年7月22日(火)
 

―お役中は周囲の太陽たれ―


○「和顔施(わげんせ)」と「笑顔の効用」

 前回まで三回にわたって「法燈相続の大事」(―「あとつぎづくり」と「信教の自由」―)のテーマで記しました。特に前回は少々固い内容でしたから、興味を持っていただきにくかったかもしれません。でも「信教の自由」の内容やその限界については、お役中ともなれば一通りの基本だけは理解しておく必要もあろうかと存じます。知っておけば、自信をもって対応できることにもなるからです。

 

 さて今回は少し柔らかく「笑顔の大切さとその効用」について記したいと存じます。

 仏教に「無財(むざい)の七施(しちせ)」という教えがあるのをご存知の方は多いと存じます。

①眼施〈げんせ〉(まなざし)

②和顔施〈わげんせ〉[和顔悦色施〈わげんえつじきせ〉](表情)

③言辞施〈ごんじせ〉(言葉)

④身施〈しんせ〉(体の奉仕)

⑤心施〈しんせ〉(慈悲の心)

⑥床座施〈しょうざせ〉(席を譲る)

⑦房舎施〈ぼうしゃせ〉(部屋や家の使用のための提供)

(雑宝蔵経第六「七種施因縁」大正蔵第4巻479頁)

 以上の七つで、いずれも金銭や財物を与えなくてもさせていただける布施ですね。

「和顔施」はその二番目ですが、端的にいえば周囲に対し笑顔や慈悲の表れたよい表情で接することですから、当然ながら①の「眼施」(まなざし)も関係しますし、そのもととなる「心」のありようも深く影響します。

 

 この「笑顔」は、実はお役中にとっては殊(こと)に大切なものだと思うのです。それは周囲のご信者の教導はもとより、結縁、育成、法燈相続をはじめ、家庭内の円満の秘訣(ひけつ)の一つだとも申せます。では笑顔にはどんな効用があるのでしょう。

 

○「笑顔の効用」を生かす

 

 以前NHKテレビで『オモシロ学問人生』というシリーズ番組がありました。毎回ちょっと変わった研究をしている学者さんとその研究内容が紹介されるのですが、その中の一つで、「表情分析学」という聞き慣れない学問を研究している工藤 力(つとむ)教授が紹介された(1999年3月2日・NHK総合)のです。タイトルが「顔は口ほどのものをいう」でした。この工藤先生、最初は別の研究をしていたのですが、当時ある女性を好きになり、やっと初デートにこぎつけることができて、一日のデートをしたのです。ところが、それまでそうした経験が全くなかったところへもってきて根が真面目でカタブツだった先生は、カチカチになってしまい、少しは言葉を交(か)わしたものの一日中固く強(こわ)ばった表情のまま過ごしてしまいました。そのまま別れ際になったとき相手の女性は「あなたは私と一緒に居ても少しも楽しくないのですね。もうお会いしない方がいいと思います」と言った由で、彼女とはそれっきりになってしまいました。この失恋にショックを受けた先生は、改めて表情の大切さに気がついたのです。いくら心の中で相手を好ましく思い、一緒に過ごせることをうれしく思っていても、表情にそれが出ていないと、決して伝わらず、誤解さえされてしまうことを思い知らされたわけです。それで先生は発奮して、当時研究が進んでいた米国の大学へ渡り、表情分析学を修めました。その成果もあってか、帰国してからの恋愛には成功して、今の奥さんと結婚することができたのだそうです。

 

 さてこの工藤教授の研究によれば、人と人がコミュニケーションをする際、特に面と向かって会う場合、客観的な「言葉そのもの」の伝達力は意外にも全体のほんの数パーセントの効果しかないのです。それが「活字」と全く違うところだというのです。むしろ、声音(こわね)とか、身体全体の雰囲気とか、特に顔の表情、目、顔色などのほうがずっと大きな伝達力を持っているのです。そういえば「どうぞごゆっくり」と言いながら人を追い出すこともできますね。そして表情の中でも最も影響力があるのが「笑顔」なのだそうです。先生は「笑顔の効用」として次の4つを挙げます。

①笑顔は伝染する。

②笑顔は引きつける。

③笑顔は明るい話題になる。

④笑顔は7~8歳若く見える。

 

 ①の「笑顔は伝染する」というのは、例えば電車の中などで向かい側の席に赤ちゃんがいてニコニコ笑っていると、大概の人はつられてほほがほころびますね。「貰い泣き」というのはつられて泣くことですが、笑顔の方が伝染力は強いのです。いい笑顔は周囲を笑顔に染めていく強い力を持っているのです。

 

 ②の「笑顔は引きつける」とは、笑顔のある所や人の周囲には他の人が引き寄せられ、集まってくるということです。怒った顔や気難しそうな顔、悲しく暗い表情を好きな人はありませんから、必要のない限りそんな所には近寄らないように、自然になっていくのが普通です。

 

 ③の「笑顔は明るい話題になる」とは、暗く陰気な表情や、怒ったような顔で会話や話し合い、会議などをしていると、どうしても話の傾向やその場の雰囲気が消極的で非生産的な方向に趣(おもむ)いてしまい、大概はロクでもない結果にしかならないのに対して、笑顔を大切にして会話や会議を進めていくと、不思議に明るい方向、積極的で生産的な方向に話題が向かい、善い結果を得られることも多いという意味です。

 

 最後に④の「笑顔は7~8歳若く見える」とは、人は地球の重力を受けて生活しているため、生まれて以来加齢とともに筋肉も皮膚も下に向かって垂れ下がってゆくのですが、にっこり笑うとアゴの筋肉やほほ全体が上に引き戻されるので、その分必ず表情は数歳から7~8歳は若返る道理だということです。実際同じ人の写真でも笑顔の方が感じもよく、若々しく、イキイキとして見えますね。

 

 開導日扇聖人は御教歌に仰せです。

  いか計(ばかり)うれしき事のあるやらむ

    みるにゑまるゝみるにゑまるゝ

「あの人はあんなにうれしそうにニコニコしているが、一体どれほどのいいことがあったのだろう。それにしても見ている私までもがつられて自然にほほえんでしまう。いやほんとうに結構だなあ」というほどの意でしょうか。「こちらまでうれしくなってついつい目が離せない」という雰囲気ですね。見ているこちらに文字通り「笑顔が伝染」し、「笑顔に引きつけられ」ており、「なぜだろう」と興味・関心を喚(よ)び起こされてしまっているわけです。

 

 笑顔の大切さは、女子マラソンの高橋選手に対する小出義雄監督の言葉にもあります。〈小出監督はいつも言っていた。「嫌(いや)な顔をしてやっちゃいかん。楽しんでやれ。ニコニコしている顔に出会うと、こっちまでうれしくなる」高橋選手がけがをしたり、風邪(かぜ)をひいて焦(あせ)っていると、「せっかく風邪をひかせてくれた。せっかくお腹(なか)が痛(いた)くなったのだ。ありがたい。そう思う心が大切なのだ」と小出監督は書いている。(『君ならできる』幻冬舎)〉[毎日新聞・2〇〇〇年9月26日『余録』]

 

 笑顔の効用の素晴らしさは以上の通りですから、まずは形から、事相(じそう)・外見からなりとも笑顔の稽古をすべきですが、もちろん本物で自然な笑顔には、そのもととなる心のありようがやはり大切だというのは当然です。深い喜びや感謝の心があれば、自然にそれが目に、表情に、雰囲気に表れてくるでしょうから。ただそれでも工藤教授の失敗のような例も一方ではあるのですから、やはり努力や工夫も大切なのでしょうね。稽古や喜びと感謝の心の大切さについては、これまでに記した「稽古の大切さ」(新役中入門⑯⑰)や「懺悔の大事」(同⑬)の中の「随喜段」の説明等で既に触れておりますから、参照してください。

「まれな人間に生まれ、その上真実の大法にお出会いできた。そのおかげで堕獄の定業(じょうごう)を能転(のうてん・よく転じ)して現当二世の大願を成就させていただける。これほどの喜び、うれしさがあろうか」という最も根源的な深い喜びを感得させていただけるのが佛立信者なのです。これさえ忘れなければ、きっと大丈夫だと存じます。

 

○お役中は周囲の太陽たれ

『妙講一座』の「日月の御文」やイソップの「北風と太陽」の寓話(ぐうわ)ではありませんが、お役中はやはり周囲のご信者にとって太陽のように明るく暖かい存在であってほしいと存じます。そのためにもまず笑顔を大切にしてほしいのです。

 先の工藤教授の4つの「笑顔の効用」にあるように、組なら組長さんの笑顔が次第に周囲を染め、引きつけて、その組全体が明るく前向きに歩んでいく原動力ともなっていくのだと思うのです。

 

 

 ―「あとつぎづくり」と「信教の自由」―

 

○「信教の自由」の具体的理解を

 

 前々回は「法燈相続の基本的な意味」を中心にお話ししつつ、「信教の自由」を代表とする自由権は、それが「個人の自由な意思決定と活動とを保障する人権」というだけではなく、その前に「国家が個人の領域に対して権力的に介入することを排除する」という意味で「国家からの自由」だということをしっかり理解しておいていただきたい旨、申しあげました。


 これは実はとても大切なことで、この「国家からの自由」ということをよく知らなかったり、思い違いをしているために、お教化や法燈相続をすすめようとする現実の具体的な場面で双方に様々な誤解を生じることとなり、それがひいては教化や法燈相続における相当な障害(意識的・無意識的な)となっている可能性もあるのです。


 ですから、わが子を含む他の人に御題目をすすめることは、決して「信教の自由」に反することではなく、むしろそれこそが憲法の保障する「信教の自由」の内容の重要な部分であり、そうした国民の宗教活動に対して国やその機関が権力的に介入してくるようなことこそが、直接「信教の自由」に反する違憲行為となるわけです。


 また先月は、このことと関連して義務教育を中心とする公教育の課程に「宗教教育」を導入することは、それが公立の小・中・高校等である場合には直接憲法違反となるものであり、いくら情操教育や道徳教育のためといえども許されないことなのだ、とも記しました。


 私立の学校ならともかく、公立では認められることではないのです。あらゆる宗教・宗派に関する全く客観的・中立的な宗教教育など考えられませんし、仮にそんな宗教教育が可能だとしても、そんな宗教教育は本来の宗教教育とは言えないものだと存じます。宗教は元来がただ教義的な面だけではなく(それだけでも教えるのは困難ですが)、むしろ修行とか信仰的な情熱や信念・確信といったところに本質的なものがあります。ですから、本当の宗教教育であれば、こうした本質的な部分に触れずにはいられないはずです。でも、それらの全てを客観的・中立的に教えることができるはずはありません。


 また、キリスト教も、仏教も、イスラム教も、ヒンドゥー教も宗教として教え、さらに佛立宗のことも教える、そんなことはなおのこと不可能です。国にそんなことを要求できるのなら、他宗も同じように「自宗の教義・信仰を学校で教えてくれ」と要求しますね。「国が権力的に介入することを排除する」ということの延長線上にはこうした問題も含まれているのです。

「情操・徳育の基礎として公教育でも宗教教育を」という意見は、一見一理あるように見えますが、現実の具体的な場面を少しでも想定してみれば、これは随分困ったことになるということはすぐわかります。だからこそ宗教教育は国民一人ひとりの信仰や努力に、また宗門の努力に、その基本と中心を置くほかはないのです。法燈相続も、こうした観点から改めて見つめ直し、教務はもとより親や周囲のご信者、お役中等の、そのための努力の大切さを再認識すべきだと存じます。

 

○「人権の私人間効力(しじんかんこうりょく)」と「信教の自由」


 さて今回は日本国憲法の「信教の自由」について、もう少し具体的に説明しておきたいと存じますが、その前に前回予告させていただいたいわゆる「人権の私人間効力(しじんかんこうりょく)」ということについて少し触れておきたいと存じます。


 実はこの問題は、前回記した「憲法で信教の自由が保障されているのだから、ご信心のことは親でも子に対して強くは言えない」と思う誤解の背景ともなっています。もっともこの誤解の大方は、前回記した説明で解いていただけたかと存じます。

 

 念のため重ねていえば「憲法の基本的人権の規定は、公権力との関係で国民の権利・自由を保護するもの」であり、特に自由権(その代表は思想の自由や信教の自由)は、いわば「国家からの自由」なのであって、「国民相互間(私人間[しじんかん])には直接適用されるものではない」ということです。この原則は基本的にこの通りで、まずそのように理解しておくことが大切なのですが、実はもう一つ同時に理解しておく必要のあることがあるのです。


 これは「じゃあ、いくら憲法に規定があっても、私人間には全く関係ないということか。それは何か変じゃないか」という疑問に対する回答ともなるものです。これをもう少し正確な表現でいえば次のようになります。


「日本国憲法で保障されている基本的人権の価値は、実定法秩序の最高の価値であり、あらゆる法の最高の法(最高法規)である憲法に定められているということは、公法・私法のすべてを包括した全法秩序の基本原則であって、すべての法領域に妥当すべきものであるはずだから、憲法の人権規定は、私人による人権侵害に対しても何らかの形で適用されねばならないのではないか」ということです。


 実はこれが「人権規定は私人間にどのように適用されるか」(人権の私人間効力)という問題なのです。これに「間接適用」(間接効力)と「直接適用」(直接効力)の二つの考え方があるのです。


 この二つの説のうち、日本の通説・判例は基本的に「間接適用」(間接効力)説です。これは「規定の趣旨・目的ないし法文から直接的な私法的効力をもつ人権規定を除き、その他の人権(自由権ないし平等権)については、法律の概括的条項、とくに、公序良俗に反する法律行為は無効であると定める民法90条のような私法の一般条項を憲法の趣旨をとり込んで解釈・適用することによって間接的に私人間の行為を規律しようとする見解」(「憲法」第三版・岩波・芦部信喜著、高橋和之補訂・107頁)です。


 要は、「信教の自由の規定は、直接私人間に適用はされないが、例えば民法の条文等を通して間接的に適用され、活かされるのだ」ということです。

 宗教団体が公序良俗や社会通念等に反する行為を行って様々な問題を起こした際、直接憲法云々ではなく、まず民法、そして刑法や宗教法人法、さらには道路交通法や条例等によって規制しようとするのも、場合によっては、こうした間接的な適用が配慮されていることがあるわけです。

 

○信教の自由の内容と限界

 

(一)信教の自由の内容

 憲法第20条第1項前段は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と定めています。この「信教の自由」には(1)「信仰の自由」(2)「宗教的行為の自由」(3)「宗教的結社の自由」が含まれています。


(1)「信仰の自由」とは、宗教を信仰し、または信仰しないこと、信仰する宗教を選択し、または変更することについて、個人が任意に決定する自由です。これは、個人の内心における自由ですから、絶対に公権力等が侵害することは許されません。その結果、①内面的な信仰の外部への表現である「信仰告白の自由」が当然に認められます。ですから、国は、個人に対して信仰の告白を強制したり(いわゆる宗門改め)、信仰に反する行為を強制したりすること(踏絵や信じていない神社への礼拝の強制など)は許されませんし、宗教と無関係な行政上・司法上の要請によっても所属の宗教団体名など、個人に信仰の証明を求めることはできません。②信仰または不信仰のいかんによって特別の利益または不利益を受けない自由。③両親が子どもに自己の好む宗教を教育し、自己の好む宗教学校に進学させる自由、および宗教的教育を受けまたは受けない自由等が派生します。


(2)「宗教的行為の自由」とは、信仰に関して、個人が単独で、または他の者と共同して、祭壇を設け、礼拝や祈祷を行うなど、宗教上の祝典、儀式、行事その他布教等を任意に行う自由です。宗教的行為をしない自由、宗教的行為への参加を強制されない自由を含みます。このうち「布教の自由」は、直接的には「表現の自由」の問題ともなります。


(3)「宗教的結社の自由」とは、特定の宗教を宣伝し、または共同で宗教的行為を行うことを目的とする団体を結成する自由です。この自由は(2)の「宗教的行為の自由」に含まれるとも申せます。


 ただ、くどいようですが、重ねて申しあげておきたいのは(1)(2)(3)の自由はいずれも「国からの自由」であり、「国の権力的な介入を排除する」ものだということです。


(二)信教の自由の限界


 信教の自由の内容は概略以上のようなものですが、宗教上の行為の自由は、信仰の自由は別として、国際人権規約(自由権規約)第18条の定めるように、「公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要な」制約に服します。何をしてもいいわけでは決してありません。ただ、その制約は、必要不可欠な目的を達するための最小限度の手段でなければならないとされています。


 宗教法人法が、「個人、集団又は団体」の宗教上の行為の自由を制限するものと解釈してはならないとしながら(第1条第2項)、「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をした」り、「宗教団体の目的を著しく逸脱した行為をした」宗教法人は、裁判所によって解散を命ぜられることがある旨定められている(第81条第1項)のもこの趣旨です。「オウム真理教」が解散命令(最高裁決定・平成8年1月30日)を受けたのも止むを得なかったわけです。


「信教の自由」が厚く保障されていると同時に、その「宗教的行為の自由」については「公共の福祉」等による制約が一方に厳然として存在していることも、お役中はよく理解しておかねばならないのです。

「政教分離原則」については、また機会があれば触れたいと存じます。

 

〔参照〕

日本国憲法第20条

(信教の自由、国の宗教活動の禁止)

①信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

②何人も宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

③国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 

 

 

 

 

―「あとつぎづくり」と「信教の自由」―

○「信教の自由」と法燈相続

 

前回は「法燈相続の大事」(1)として、まず法燈相続の基本的な概念の理解をした上で、例えば親子の関係でいえば、親の子に対する愛情の表現の仕方も多くあるが、その中でも最高の愛情表現は、この真実の大法・御題目のご信心を相続させることだと申しました。愛情といっても、猫可愛がりに甘やかす“痴愛”もあれば、その子が将来どこで、どんな暮らしをし、どんな苦難に直面しても支えとなり、さらには来世までも救い、真実の幸せに導くことができるようにする、その基(もとい)を与えようとする愛情もあるわけです。よくよく考えてみれば、信心を与えることに優(まさ)る愛情はないことに思い至ります。この点についてはこの連載の第三回(平成14年3月)、「不軽菩薩の心をいただく(2)」=「相手に対する真の尊敬」と「自ら求め続ける心」を大切に=で、大村はま氏の『教えるということ』(現在は『新編・教えるということ』ちくま学芸文庫刊)からの抜粋なども紹介しつつ述べたこともありますので、併せて参考にしていただいたらと存じます。

 また、法燈相続の元来の意味からいえば、この語の使用は必ずしも親子等の血縁間での信心相続に限られるものではなく、教化親と教化子はもとより、先輩と後輩のご信者間でも用いることができる語であり、さらには「お役の相続」のような後継者の養成も含めた「あとつぎづくり」という広い意味をも包含するものであるから、そういう観点からも改めて大切に見直すべきことを、新発見の「ミラーニューロン」(鏡神経細胞)の働きなども紹介しつつ申しあげました。

 さて今回のテーマは「信教の自由と法燈相続」です。この問題について考えるにあたって、まず清風寺のある教区で平成10年に実施された小さなアンケート調査の結果を紹介しておきたいと存じます。二つの教区の婦人会員を対象とした簡単な調査で、回答者は61名です。極く限られた範囲での調査ですし、選択肢の作り方によっても種々の相違が出てくるのがこうした調査の常ですから、決して厳密なものとは言えないでしょうし、これだけで適正な判断ができるとは考えてはおりません。でも少なくとも一つの参考資料にはなるかと思うのです。ちなみに法燈相続に関する選択肢は次の三つでした。

①法燈相続は親の責務だと考える。

②「信教の自由」だから親でも強制できない。

③本人の考えに任せる。

 回答結果は①が15名、②が15名、③が31名でした。この結果で見る限り、親が子に佛立信心を相続させることは親の責務だと考えている婦人は回答者の約四分の一にしか過ぎないのです。②は一応勧めはしても、「信教の自由」が憲法で保障されている以上、強制することはできないと思っているわけで、これが同じく約四分の一。③は要は本人の考え次第で、本人任せにしている。これが約半数です。③と回答した人の判断の背後には②の考えもあるのではないかと思われ、いわば消極性の程度の違いかとも考えられます。そしてここには「信教の自由」の意味・内容に対する大きな誤解の存在が看取されるのです。


 これからの説明には少し難しい言葉も出てきますが、全体としては決して難解なものではありません。まずはとにかくざっと目を通してください。

○憲法が保障する「信教の自由」は、基本的に「国家からの自由」である

「信教の自由」はいわゆる基本的人権の中の「自由権」の一つです。そしてこの「自由権」というのは「国家が個人の領域に対して権力的に介入することを排除し、個人の自由な意思決定と活動とを保障する人権」であり、その意味で「国家からの自由」とも言われるものです。「国家の権力的な介入を排除する」ということが重要なのです。この点をよく注意してください。先のアンケートで②や③と答えた方(全体の四分の三)は、「個人の自由な意思決定と活動とを保障する人権」という点にのみとらわれてしまい、「国家からの自由」なのだという大切な点を見落としているのではないかと思うのです。これをもう少し分かり易く説明するために具体的な例を挙げておきます。

 よくあることですが、例えばキリスト教や仏教等の特定宗派の私立の幼稚園や小・中・高校等で、児童・生徒が特定宗教に基づく宗教儀式に出席したり礼拝することを強要されたとしたら、これは憲法の保障する「信教の自由」に反する違憲行為となるでしょうか。なりませんよね。ところが同様のことがもしも公立の学校や幼稚園で行われたとしたら、間違いなく違憲なのです。なぜでしょう。先に記したように「信教の自由」が「国家からの自由」だからです。ですから国及びその機関、地方自治体、公立の学校や組織等が、国民(私人[しじん])の信教の領域に介入すればこれは直接憲法に抵触(ていしょく)することになるのです。これに対して、私立の学校のように国及びその機関等でない私人(しじん)たる団体・法人等が特定の宗教行事や儀式を実施したり、生徒に参加を強制したとしても、基本的に直接憲法問題とはならないわけです。ましてや個人が他の個人に特定の信仰を勧めたり、親が子に御講参詣や入信・御本尊の奉安を勧めたからといって、これが信教の自由に触れる違憲行為となるはずがありません。それどころか、むしろそれこそが、信教の自由の内容として国民に保障されている内容そのものなのです。

 ですから、他の人(子も含む)に自分の信ずる信仰について話をし、その信仰を勧める行為に対し、「相手の意に反して特定の信仰を勧めるのは信教の自由に対する違憲行為だ」などという批判は、「信教の自由」の基本的な意味を全く理解していない、誤った思い込みに基づいて発せられているものなのです。相手から「憲法違反だ」などと言われると、ついつい腰が引けてしまいかねない。それどころか、そんな風にいわれなくても、最初から何となく「信教の自由だから、信心のことは親でもあまり言えないな」とご信者自身が思っていて、そのために「まあご信心のことは本人任せにするしかない」などと思い込んでいるとしたら、これも同じ誤解をしているのです。「憲法の保障する信教の自由の“自由”は“国家からの自由”なんだよ。個人が他の人に何かの信仰を勧めるのは、それこそが憲法で国民に保障された信教の自由の中身そのものなんだから、憲法違反なんてとんでもない誤解だよ」と、まずは穏やかに誤解を解くように話しておくことが大切です。もちろんこの誤解が解けたからといって、それで「相手が入信する」というような簡単なものではないでしょう。何といっても信仰そのものは個人の内心のものですから、その点だけを言うなら憲法があろうとなかろうと、誰も強制できるはずがありません。本心から信ずるか信じないかは、本人の内心の問題だからです。でも「御題目ほど有難いものはないのだから、あなたも御題目を信じてお唱えしなさい」、「とにかくお寺に参りなさい」、「今日の御講に参らなかったら今月のおこづかいは無しよ」等と、親が子に言ったとしても、それが直接憲法に違反するなどということは決してありません。もしも、それで「親の行為は憲法に反する」などと言って警察などが介入してきたら、それこそ公権力が憲法違反を犯すことになるのです。

「信教の自由の内容と限界」や「人権の私人間効力(しじんかんこうりょく)〈通説・判例は間接効力説〉」等については、次回でできるだけ分かり易く触れたいと思っています。「何だか難しそう」と思うかもしれませんが、お役中さんともなれば、最低限理解しておくことが、宗外者やご信者の家族等と対応する際に有益だと思いますし、例えば「パナウェーブ研究所」(白装束集団)や「オウム」(現・アーレフ)等の問題を「信教の自由」との関連において見ていく上でも少しは役に立つと思います。

○「宗教教育を義務教育(公教育)にも導入せよ」という意見には問題がある

 親が法燈相続を願い、佛立信心を強く勧め導くことは、その方法や程度が「公序良俗(こうじょりょうぞく)」や「社会通念(つうねん)」に反する非常識なものでない限り、それこそ「信教の自由」で保障された「信仰の自由」や、布教等の「宗教活動の自由」に基づく行為なのであり、決して「信教の自由」に反する行為ではないことをよく理解し、もっと自信を持って積極的に法燈相続を勧める姿勢と努力が大切なのだということを、まずはしっかり理解しておいていただきたいのです。

 さて近年一部の学者や識者等の間から、「正しく豊かな情操教育のためには、やはりどうしても宗教教育が不可欠である。できれば義務教育の中に宗教教育を入れるべきだ」との意見が出されています。例えば梅原猛氏(故人)が京都の私立洛南中学で一年間行った講義の記録が『授業―仏教―』として刊行され、多くの読者に感銘を与えています。その中で、氏は、宗教教育の大切さを力説されると同時に、公立の学校では実現できなかったことを残念に思っていることも表明されています。

 でもこうした意見・見解はやはり問題だと思います。洛南中学は真言宗の東寺の境内の中にある私立中学ですから、ここで氏が同校の中学生に対し仏教を中心とする宗教教育の授業を行ったことは、憲法上全く問題ありません。学校も承知した上でのことですね。また豊かな情操を育(はぐく)むために宗教教育が大切であり、有効であることも、基本的には賛同いたします(宗教・宗派の教えの内容にもよりますから、一般論としての話です)。

 しかし、だからといって公立の小学校や中学校の義務教育の課程や公立高校での授業の中に宗教教育を導入することについては大きな疑問があると言わざるを得ません。私自身は少なくとも反対の立場です。その理由は、何といっても先に述べた「信教の自由」、「国からの自由」に反するからです。これこそ憲法違反となる可能性が極めて高いと存じます。

「客観的に“宗教の大切さ”を教えるのであって、特定の宗教・宗派の教義や価値体系に偏向しないように教えれば問題ないのではないか」と推進論者は言うかもしれませんが、それでも問題です。また客観的に全宗教の紹介をしたり、その価値体系を教えたり、ということが現実に可能だとはとても考えられません。さらには教師も人間です。人によって個性もあれば信条や信仰も異なります。第一教科書はどうするのでしょう。こういった諸点を考えただけでも公教育(特に義務教育)に宗教教育を導入する意見を安易に肯定すべきではないと存じます。国や地方自治体も、現在のところそういう考えは持っていないと存じます。少なくともそうあってほしいと願っています。戦前戦中の国家神道が国教化されていた時代の国の教育を思い出してください。むしろ年輩の方のほうが、国が思想・宗教教育に介入したときの弊害(へいがい)はよく理解されているのではないかと存じます。宗教教育を求める識者は、もちろん戦前のような極端な国粋的教育とは全く違うあり方を想定しているのでしょうが、それでも公教育の場で宗教教育を行うことは「国からの自由」に反するという点では同じだと思うのです。

 くどいようですが、私は決して宗教の大切さを教える宗教教育の重要性を否定するのではありません。大切だと思うのです。でもだからといって公立の小・中・高校等、義務教育を中心とする公教育の場で、宗教教育を行うことは肯定し難いのです。

 それだけに、各ご信者の家庭やお寺、御講参詣を通じての佛立信心の教育が大切であり、そうした信心教育によって子弟の育成・法燈相続を確かなものとする努力が求められているのだと存じます。

 

―「あとつぎづくり」と「信教の自由」―


〇法燈相続と「あとつぎづくり」


 前回と前々回の二回にわたって「稽古の大切さ」のテーマで、稽古の基本的な意味を踏まえつつ、これに「シミュレーション」や「イメージトレーニング」の観点を意識的に付加した把え方や、その観点から稽古の活用の具体例として「ご披露」の実際的なあり方等について申しあげました。

 

今月のテーマは「法燈相続」ですが、これも大変大きな問題です。各寺院でも、ご信者方もいろいろと随分工夫や努力をなさっていることですし、沢山の問題点もあるわけですから、その全般についてここで触れることなど、到底できることではありません。そこでここでは極く基本的な理解のための概説と、「あとつぎづくり」という観点、それに「信教の自由」と法燈相続との関係についてのみ記したいと存じます。
 

まずはじめに「法燈相続」の語義ですが、これは狭義では親から子へ、子から孫へと信心を伝え、受け継いでいく意ですが、元来の意味は「ご信心の燈(ともしび)を他に伝える」意ですから、「信心相続」ともほぼ同義ですし、広義ではいわゆる「教化」とも重なります。つまり、必ずしも親子等の血縁者間に限られるものではなく、師弟や教化親子等全く血のつながりのない者同志の間でも使用可能な用語です。

   また「させる側」と「受ける側」、いわゆる能動と受動との双方で、同じ法燈相続でも観点は異なってきます。

 

 そこで、そんなことも踏まえつつ、また一方では「お役の相続」も含む、いわば「あとつぎづくり」とでもいうべきやや広い観点からも考えてみたいと存じます。お役中であるご信者にとっては、子弟への信心相続と並んでお役の後継者を養成していくということも大切なご奉公だからです。

 

  個人にとっても、組織にとっても、それが保有する有形・無形のもの(物質的・精神的に価値のあるもの)を継続して伝え、確固たるものとして存続せしめていくことは極めて大切なことです。これを信心の世界でいえば、それなくしては正法を後世に伝えることができず、そうなれば妙法弘通による衆生救済も不可能になってしまいます。もちろん組織も存続できません。「あとつぎづくり」の大切さはまさしくそこにあるわけです。自身にとって一番大切な御法を他の人にも伝え信ぜしめ、そのことによってその人も真の幸せへ導き、さらに佛立信心が伝えられて、後々まで多くの人を利益することができるように努める、これほど大切なことはないわけです。

 
今年(平成15年)は5月11日が第2日曜で「母の日」、6月15日が「父の日」です。この5月11日の新聞(毎日・朝刊・「女の気持」)に「母の日」にという題で、島根県出雲市在住の加藤澄子(50)さんの寄稿文が紹介されていました。

「15年前の母の日、朝目覚めると枕元に『お母さんありがとう』のメッセージと一緒に造花のカーネーションが置いてあった。(中略)台所に下りると、テーブルの上に私が収集している500円のテレホンカードが、これも造花のカーネーションと添えて置いてあった。
 娘が大学四年になった昨年の母の日も娘の好きなキャラクターの付いたキーホルダーをくれた。

 その娘も、今年彼女の念願だった中学校の美術の講師に採用され、家族一同喜びにわいた。

 しかし、忙しくて福岡にいる娘のところに行ってやれない母親としては、それはそれで心配も増える。仕事をしながら思い出した用を、連日、娘に電話したものだから、ついに娘が怒り出した。

  『お母さん、私ももう23歳になったんだよ。子供じゃあるまいし毎日毎日わかったことを電話しないでよ』。私は脱力感におそわれて沈んでしまった。

   だが待てよ。翌朝私は考え直した。ここはひとつ大人になって、子供の自立宣言を喜ぼう、今年の母の日にたとえ何も送ってこなくても、娘が自立したことこそ、母である私への最大のプレゼントだ、と。

 子供の幸せが、親である私の最高の幸せなのだから」

   簡潔で、雰囲気までよく伝わってきて、読んでいてつい口もとがほころびそうになりました。いつの世にも、子の幸せを願わぬ親はないということは、こんな平和な短い文章からも理解できます。

   特別な例外は別として、子を愛さない親はありません。ただその愛情表現となると様々です。


  ○信心を伝えることこそ最高の愛情表現

 身内を愛する愛し方、愛情表現にもいろいろあります。

  例えば親子の間、特に親から子に対するあり方としては、

①まずとにかく子供の望むようにしてやる。今現在の喜ぶ姿を大切にし、欲しがる物は与え、極力叱らないようにして、不自由のないように育てる。

②将来にわたって少しでも豊かな生活ができるよう財産を残してやる。

③豊かで安定した生活を確保できるよう、教育をうけさせ、資格や手に職がつくように努める。

   まずはこういったことが一般的な親の子に対する愛情表現でしょう。


 ①はいわゆる「猫可愛がり」「甘やかし」ですから、最も低劣な愛情表現で、愛するといいながら、実際には社会に出て一人で生きねばならなくなったときには、本人が自立して生き抜いていく力を育て、鍛えることをしていないのですから、最も拙い愛情表現だと言わざるをえません。


 ②や③は普通の親が通常考えることで、いわばもっともなことです。財産を残してやることもそれ自体は悪いことではありませんし、教育、資格等のための努力も大切です。できる範囲で努力してやればいいと存じます。要は子を鍛え、能力を身につけ、できれば資力を与えておくことは、それ自体、親としての立派な愛情表現に違いないのですから。ただ、ではそれだけで十分で、それ以上のことはもう何もできないかというとそうではありません。世の中には、本人にも周囲の者にもどうしようもないことが無数にある。病気や怪我、不慮の災難もあれば、犯罪、景気や経済の動行、はては戦争もあります。体や心を鍛え、教育や資格を身につけ、資産を持っていても、それでも必ず幸せでいられるとは限りません。ましてや親がいつまでも傍(かたわ)らにいて見守ってやることは不可能なのです。それに未来・来世のことはどうなのでしょう。そんなことを考えると、世の親の常識としてできるだけのことをしてやるだけでなく、佛立信者なら、もう一つ世間の親のできないことをしてやれる。それがこのご信心をしっかりと伝えてやることなのです。


 大切な、最愛の子供や家族の行く末の幸せを本当に考えるのなら、その子がどこで暮らし、どんな人と出会い、どんな状況になったとしても、そして仮にお金もなく、病気になったとしても、どんな事態に陥(おちい)ったとしても、最後のところはこの御題目を杖とも柱とも頼んで立ちあがり、御法のご守護をいただいて生き抜いていく。そして臨終を迎えた後の来世までも幸せを約束される。そんなことができるのはこのご信心しかないのですから、そう思えば、何をさて置いてもこの信心を伝え、相続させることこそ何にも優(まさ)る最高の愛情表現であるはずです。


 先の母親・加藤さんは実に立派なお母さんです。中々彼女のような親にもなり難いのが実際です。娘さんもきっと優しく親思いのいい娘さんなのだと思います。そして確かに、大学を出て念願の立派な職を得、親から遠く離れて自活を始め、自立しようとしている娘さんも、その娘さんの姿を「娘が自立したことこそ、母である私への最大のプレゼント」で、「今年の母の日にたとえ何も送ってこなくても」いいのだ、という受けとめ方も見事だと存じます(きっと娘さんは忘れずに何か送ってきたに違いないと思いますが)。でも佛立宗のご信者なら、もう一つ違った観点があるはずだと存じます。「何もプレゼントなどなくてもいい。優しい言葉もなくてもいい。社会的に自立してくれているのも有難い。それに何といってもこのご信心を相続してくれている。これほど親としてうれしく、安心なことはない。ご信心の相続ほど親として有難く、最高の幸せはないのだから」と、こんなふうに心から思うことができたら、と存じます。


「父の日」は6月15日だということは先に申しました。「父の日」は「母の日」にくらべればどうも影がうすいようで、プレゼントを貰えない父親も結構多いのではないかと存じますが、負け惜しみ半分でも「お父さんは何も貰わなくても十分幸せだよ。何といっても子であるお前がこのご信心を頂いて、信者になってくれているからね。これこそお父さんにとって最高のプレゼントだよ」などと言ってやることができたらどうでしょう。口に出して言う言わないは別として、親が真実そんな心でいることが大切だと存じます。そういう心でいれば、それは平生の親の生活態度の中で折にふれて自然に姿形に表れてきて、それがまた自然に子や周囲にも伝わっていくからです。

 

 解剖学者の養老孟司(ようろうたけし)氏は次のように言っています。

  「要は子どものことをいうなら、まず大人が自らを省みよ、ということである。教育基本法の最初にそう書けばいい。古来、子どもは大人を見習うものに決まっている。孟母三遷(もうぼさんせん)という故事や、ミラー・ニューロンという新発見を引くまでもあるまい。ミラー・ニューロンとは、他人のしていることを見ているだけで活性化し、その真似をするとさらに活性化するニューロンなのである」

(平成13年12月2日毎日新聞「時代の風」)

 ニューロンは神経細胞のことで、ミラー・ニューロンは直訳すれば「鏡神経細胞」です。近年の研究によって発見された人間の脳の中にある神経細胞の一種で、目に映った他人の行動などを鏡のように自分の脳の中に写しとる能力をもっており、同じことを真似して行うとさらに活性化し、自己のものとしていくもののようです。

「子は親の背を見て育つ」「子は親の鏡だ」と申しますが、実際に脳の中にそういう神経細胞が存在することが発見され、科学的にも認められたというわけです。大人の、親の信心前や平生の生活態度が、法燈相続にとってもいかに大切かということを改めて教えられたような気がいたします。

  開導聖人の御指南・御教歌をいただいておきます。

 御指南

  ○「わが手元の折伏教化大事肝要也。今此(この)講内の家内皆々大信者になるならば、よほど大勢の弘通となる也。」

  (青柳厨子法門抄13・扇全3巻136頁)

○「吾子(わがこ)といへども三界の衆生也。他人一人教化のなりがたきを思へば、せめて我子になりとも信心をつたへ、一生いたづらにせぬようと思ひとりてこそ、如才(じょさい)のなき弟子旦那の心得とも云べき也、と聞て大(おおい)に感伏(かんぷく・[服])せしと云々。」

  (隆師年譜上・扇全1巻296頁)

○「わが信心を思ひさだめて妻子眷属(けんぞく)に及ぼすべし。」

  (一向令唱題目抄・扇全7巻277頁)


御教歌


○妻や子に信心をさへゆづりおかば

     たからをのこし置(おく)といふもの

○わが子には現世大事と教へたり

   未来かまはぬ親のくせとて

 
○御題・露の命の日かげ待(まつ)間

申置事(もうしおくこと)更(さら)になし

信心を 相続しやれ下種の大法

 

 

わが子に、家族に、周囲の人びとに佛立信心を相続せしめること、そしてお役中としての後継者を育てること、そのいずれにも、真の愛情(慈悲)と自身の信心前を高める努力や、平生のありようが大切なのです。
 間違っても、親が現世大事(世法のこと、暮らし向きのことが信心よりも大切だという考え方)だと、平生の自身の姿や言動で、自然に教えてしまうようなことのないようにしたいものです。

⑰「稽古」の大切さ(2)
2014年2月21日(金)
 

=シミュレーションやイメージトレーニングの活用も=

○「稽古」の活用を考える

 

 前回は、いわば「稽古」についての総論的な内容で、その基本的な意味を踏まえつつ、これにいわゆる「シミュレーション」や「イメージトレーニング」の観点も付加した概念での把(とら)え方が大切ではないか、ということを申しあげました。もっとも、こうは申しましても、「稽古」には本来そうした観点もちゃんと包含されているのだと存じます。要は、「稽古」を広い意味で、そして実践的・動的な観点から把握し直して、それを自身の信行や生活全般の具体的なあり方に活かしてゆく努力・工夫が大切だと思うのです。

  「稽古」は、基本的に「本番」があることを前提としています。もちろん「本番」といっても、それはいろいろです。生涯に一度しかない臨終のような大事もあれば、大きな大会やコンクール等での本戦への出場・出演や出品、大事な入試への挑戦等もあり、また日常生活の中での特に意識もしないような小さな本番もあります。いずれにせよ、その本番を期して想定し、これに備え、自身にひきあてて練習するのが稽古なのです。

難病である拡張型心筋症=心臓がメロン大に膨(ふく)れ上がり、その機能を失う「心不全」の一種で、日本だけでも約一万人の患者がいるといわれ、発病から五年以内に死亡することが多い重病=に対し、その心臓の一部を大胆に切り落とし、その機能を蘇(よみがえ)らせる「バチスタ手術」の世界的な権威で、日本で初めてこの手術を成功させた心臓外科医・須磨久善氏(湘南鎌倉病院・当時)が、本番の手術を控えて、自室で待機しつつ、目をつむり、顔の前で両手を動かしている姿をテレビ(NHK・プロジェクトX)で見たことがありますが、同氏は、そのようにして目前の手術の想定をし、模擬練習をしているのです。三千を超す手術の修羅場を踏み、海外では神の手を持つ男”“天才外科医と称され、日本の患者からは密(ひそ)かにブラック・ジャックと呼ばれる同氏の、手術前の姿がそうなのです。そうしてバチスタ手術の本番ともなれば、20人の医療チームを率いてメスを握るわけです。


例えば「記録・報告」にしても、ただ適当に、あるいは
御仕着せのように思うのではいけないと思うのです。その内容が次の行事の改良等に実際に結びつくような記録・報告でなくてはもったいないでしょう。それは「予告・奨引」でも同じです。いつ、どこで、何が、何の目的で、どのように行われるのか、だからどうしてほしいのか、どうすれば参加できるのか、誰が主催者で、誰が参加対象なのか等といったことが具体的に分かり易く、しかも適当な時期に示されないと有効な奨引にはなりません。これはまずご披露をする側に求められるものですから、お役中がそういう意識を持たねばならない訳です。

  「ご披露」にもいろいろな手段・方法がありますが、まず最も一般的な口頭でのご披露について考えてみましょう。


○徳川夢声の『話術』に学ぶ


NHKテレビの「武蔵」の放映開始に因(ちな)んでいるのかと存じますが、かつてラジオでの「宮本武蔵」の朗読で一世を風靡(ふうび)し、今日に至るまで
話術の達人として著名な故・徳川夢声(むせい)氏の名著『話術』(白揚社から2003年2月新装改版で再刊。初版は1949年)の「総説」の第二章「話の根本条件」の中で、氏は概略次のようなことを仰っています。


(1)話には目的がある

a 何を伝えるか

 (イ) 意志(思)を伝える……意

   こう思う、こうしてほしい、こうしては困る。

 (ロ)感情を伝える……情

   なんてうれしい、これはとんでもないことだ。

 (ハ)知識を伝える……知

   これはこういう意味、こういうこと。

*(イ)(ロ)(ハ)が一体になっていることも、交互に交わっていることもある。

b どのようにして伝えるか

 *言葉、電話、書面、今ならメールも

 (イ)必要な言葉は?   自身にひき当てた

 (ロ)その使用の仕方は?  「研究的な聴き方」を

*「こうやって言うとわかり易いな」 「こういう言葉や言い方、表情だと感じがよくて、心を打つな」と、他の人の話を聞く。

 ・要はできるだけ「わかり易く」、「正しく」、「感じのいい」言葉を用いる努力を。

 (ハ)声と調子・落ち着いた、はっきりした、大きな声で

(2)話の稽古を大切に……要は経験と平生からの心構え・姿勢が大事

①ふだんからの心がけ……正しく、はっきりと、強い声での練習を。まず夫婦や家族の会話でも。

②一人でするなら「朗読」を……絵本なら、子供が前にいると思って「○○のつもりで」の稽古を。

 以上は同書の35頁からの数頁の内容を私なりにまとめてみたものです。必ずしも原文通りのそのままのものではありませんから、その点はお断りしておきます。


同じ御講参詣奨引のご披露でも「一人でも多く参詣してもらいたい」という目的があるなら、「来月の組御講は何月何日何時から○○さん宅です」だけで終わるのと、さらに例えば「この御講は○○さんの親御さんの祥月にもあたっており、お席主も一人でも多く参ってほしいと仰っていますから、是非にぎやかにお参りさせてもらいましょう」「お宅はご存知の方も多いと存じますが、知らない方のために何時に○○の駅の改札口で私が待っていますから」とか、さらに「地図を用意します。それには住所と電話番号やマンション名と部屋番号も書いておきます。駅からは歩いて約5分です」とか、「遠方ですので電車で一緒に参りましょう」「○○さんが車に乗せてくれますからね」等々、場合に応じて参詣意欲を増すご披露の仕方は色々とあって、そうしたご披露の方がやはり「参詣増加」という目的を達する上でずっと優れているわけです。そして、そうしたよいご披露ができるようにするためには、まず少なくとも前月の御講の時までに翌月の御席が決まっていることが必要ですし、さらにはその御席・御講がどういう状況かということや、参詣方法、住所、地図等も予め必要な範囲で確認・準備をしておく、つまり頭の中で前もってシミュレートし、それに基づいて本番でのご披露の内容・方法等を考えておくことが大切になるわけです。「ご披露」の「稽古」とはそういうことも含むのです。そしてこれは例えば御講の事前のご奉公の分担、御席での役課の分担、お給仕のあり方等についてもすべて当てはまることです。


先に述べたように、稽古は本番を期しての準備であり、練習であり、同時に実地を踏みつつ改良を加え、向上・上達を図る努力でもあります。「本番」の最たるものは「臨終」ですが、平生の世法上の生活や信行ご奉公の中にも様々な本番と稽古があるわけで、そうした稽古を本当の意味で大切にしてゆくことが大事なのです。


最後に開導日扇聖人の御教歌等を頂戴しておきます。

○何事もけいこをせぬはそれの糟(かす) うたの中ではうたのへたくそ
(十一題抄・扇全12巻33頁)

 

 ○臨終の事を習ふはけふの日の  如説修行ぞ稽古也ける
(開化要談(教)・扇全14巻45頁)

お添え書き御指南

「稽古―即習ふ事也。

何時(なんどき)死(しん)でよき様に如才(じょさい)無く行ずる事 稽古也。」 

⑯「稽古」の大切さ(1)
2014年1月7日(火)
 

    =シミュレーションやイメージトレーニングの活用も=

 

〇「……のつもりで」の稽古を

 

 前回は「異体同心」をテーマに、当宗の「異体同心」は、〈四海帰妙・浄仏(佛)国土を期し、自他の現当二世の大願成就という、この上なく大きな目的の達成のための壮大なプロジェクトにおいて求められる「構成員の結束」、「チームワーク」だともいえる〉こと。そして〈教務はもとより、お役中やご信者も、各自がそれぞれプロジェクトの各部門・各レベルの指導者であり構成メンバーであって、その意味では一定の目的達成を目指すキャラバンや越冬隊、登山隊と同じところがある〉こと。そしてそこで求められるのが、まず〈同じ目的に向かおうとする「共感」であり、構成員相互の「信頼関係」なのであり〉、これを破り崩(くず)す行為こそがチームワークの大敵となること。この異体同心を破る(同破[どうは]・破和合僧[はわごうそう])主たる要因は凡夫の我(が)であるから、構成員のすべてが仏祖のみ教え、御指南をこそ規準・定規として我慢偏執(がまんへんしゅう)を抑(おさ)え、結束を図る努力が大切であること。そして構成員の信頼を破り疑念を生ぜしめるような言動・振る舞いは結局「共感」を失わせ、同破へと導く原因となるのであるから、構成員一人ひとりはもとよりのこと、特に組織全体に対する影響力の大きい教務やお役中などリーダーたるべき者は、信義に悖(もと)る言動をしたり、背信的な行為を行って、自身が同破の大罪を犯すことのないよう十分に心する必要があること等を記しました。

 

 なお「破和合僧」の「僧」は「僧伽(そうが)」(サンガ)の意で、これは僧俗を含めた仏教教団の組織全体を意味する語です。出家の僧尼と在俗の信者とを区別しての僧に限った意ではありません。「和合・結束した教団組織のありよう」を「和合僧」というのです。したがって「破和合僧」とは、「共感と信頼に結ばれた仏教教団の異体同心の結束を破ること」です。法華経でいう「法師」が、出家の僧侶に限らず在俗の信者であっても妙法を信じ他の人々にも妙法の信唱を勧め弘通する者すべてを指すこともあわせて思えば、現在では私共佛立教講こそが「法師」であり、その組織が「僧伽」であるとも申せましょう。

 

 さて今月は「稽古(けいこ)」の大切さについて記したいと存じます。稽古の「稽」は「とどまる、とどめる」、「はかる、かんがえる、くらべる」、「おなじ、いたる」等の意があり、「稽古」は「古(いにしえ)の道をかんがえる」意であり、転じて「学問、学習する」、「練習する」意(諸橋・漢和大事典)となり、要するに「くらべて考える」、「ひきくらべる」意(岩波国語辞典)です。ちなみに「習」は「ならう」、「よく知る」、「よくできる」意で、元は「雛(ひな)が翼(つばさ)を動かして飛び方を練習する」、「くりかえして行う」意から成っています。

 芸事にせよ何にせよ、秀れたものを身につけようとするなら、まずはやはり立派なお手本を求め、できれば先達の指導を受けて、お手本に近づくよう稽古・練習に努めることが肝心です。書道でいう臨書はまさしくそうで、古今の名筆家の書を手本として、その筆使いや筆勢、字形字配りからその書家の精神まで、そのすべてを「ひきくらべて」、自分もそれに近づくようにくり返して書くわけです。この稽古の大切さは何も芸術・芸事・学問等に限られたことではありません。政治はもとより世の人の営みのあらゆることに必要な大切なありようでしょう。いわゆる「温故知新」にも通じ、「歴史に学ぶ」にも通じます。「ひきくらべて」、「同じになるよう」、「くりかえして行う」ことが大切なのです。

 これを別の言い方で申せば「……のつもりで」ということにもなります。これはいわゆる「シミュレーション」とか「イメージトレーニング」にも通じるわけです。剣道でいう「見とり稽古」やボクシングでいう「シャドーボクシング」などもそうした練習・稽古の一つではないかと存じます。要は立派なお手本や型をなぞり、くりかえし習ってその基本を身につける、その際自分が本番を迎えた時を想定して行い、さらにできるだけ本番に近い情況での可能な限りの実地訓練を何度も行う、そうして実地に臨み、その経験をふまえてさらに練習を重ねる。そうするなかでいわゆる臨機の対応の幅も広がってゆく。上達とはそういうことでしょう。雛鳥は、親鳥が巣から飛びたち、巣の周辺で飛翔する姿を見、巣に戻ってくる様子を何度も見、それを真似てまず羽ばたく練習をする。現実にはまだ飛べないとしても、飛んでいるつもりで、体全体でそれが修得できるよう、くりかえし稽古をします。そのうちに翼が風を得るコツを実感し、巣の上でわずかながら体が浮くようになり、翼の力も強くなって、ついに命をかけた本番、巣立ちに臨むわけです。もちろんその後も一人前になって独り立ちし、子孫を残せるようになるためには随分様々な稽古と実地がくり返されるのでしょう。スポーツ選手が実戦・本番に備えてまず体力作りや技の習得の訓練を積み、さらに模擬戦や、シミュレーションなどを重ねて実戦に臨み、その実戦経験を踏まえてさらに訓練や工夫・改良を重ねるのも同じでしょう。

 

○シミュレーションの有効活用を

 先ごろ「佛立研究所」から発刊された同研究所の公開講演会の講演録である。『耳をすまして』(Vol 1)には、臨死体験の研究者として著名なカール・ベッカー氏(京大総合人間学部助教授、平成2年の講演当時)の「死をみつめると 生がみえてくる」との演題での講演録も収められていますが、その中で、氏は次のように言っています。少し長くなりますが、一部をそのまま引用・紹介します。

 〈14、5歳のとき父親とロッキー山脈のキャンプに出かけました。(中略)季節は6月で山頂の雪は溶けはじめのころです。雪崩(なだれ)の注意報が出ていて、山中を流れる川の水も雪が混じりものすごい勢いでした。

 ある朝、暗い森を抜けて広い平地に出ました。そう遠くないところに急流の川が流れていました。少し上流で10~12歳の子どもが二人川を渡ろうとしていました。私がそれを認めるや否や、父親はリュックを投げ捨て、信じられない勢いで上流のほうに走り込んで急流を渡り、2人の子どもを抱きかかえてこちら岸まで戻りました。(中略)

 父親は、氷水の流れる急流を往復したこともあって首までびしょ濡(ぬ)れになってしまいました。(中略)私たちは目的地まで行けずにその場でキャンプを張ることになりました。

 キャンプの用意をしながら2人でいろいろな話をしました。「なぜ、あのような行動をとることができたのか?」私は不思議でならなかったのです。父親曰く「お前もラジオを聞いていただろう。この急流で毎年死者が出ていると言っていたことを」。私は「聞いていた。それで?」。「それを単なる情報として止めておくのではなく、情報をわれわれがいかにかかわりを持って、どう行動すればよいのかを考えなければ情報は無意味なのだ」と父親から説教されました。川の流れが急、そして氷水の状態で危険となれば、これが何を意味するのかを考えなければならない。われわれは、よほどのことがない限り流れを渡るのは避ける。万が一、人が渡ろうとするときは助ける必要がある。

 このようなことを頭の中でシミュレートするというのです。頭の中で練習していれば、イメージトレーニングと同様で、現実にその場に出合わせたときに即行動に移せます。単に情報としてあるだけではどうにもならないというわけです。

 日本に派遣されたビジネスマンが、日本人は礼儀正しいと知っているだけなのと、あいさつの練習をしたり、名刺交換から正しいあいさつを実行できるように頭の中だけでもトレーニングするのとではかなり違います。正しいあいさつを実行できる外国人とできない外国人との差はそこにあると思います。すると、われわれが毎晩一日の行動を考えるときに、ただ単に「あれがあった、これもあった」と思い返すだけでなく、よかったことならば明日もそれを活かして何ができるのかといったことを頭の中で考えていくことが大切になります。逆に、相手にへんな顔をされたことについては、「むしろこういえばうまくいくのではないか」といった頭の中で練習をすることです。このようなことをやっておくと、不思議なことに頭の中で練習したことが現実に現れてくるのです。

 語学を勉強しているときでも、はじめてある漢字を覚えるときに、不思議なことにいろいろなところでその漢字が目に入ってきます。それまでに、その漢字はさまざまなところに存在していたのですが、自分が認識していなかった。漢字を覚えると「あっ、ここにもあった」とわかるように「このような言い回し」、「このような人に対する態度、接し方」がわかるということになれば、いろいろなところでそれが機能するようになります。このような「一日の反省」などということは私が皆さんに対して言うまでもないことで、申し訳なく思います。しかし、これは臨死体験を活かす方法の一つだと思うのです。つまり、自分の末期(まつご)まで待たないで今のうちに自分の生き方を考えるということで活かせると考えているわけです。〉(同書122頁~124頁)


ある情報を得たときや、ある予定があったりある予測が与えられたとき、そのまま聞き捨てたり、ほうっておいたりせず、その情報をもとにして将来起こることを想定し、それに対する自身の行動をイメージし、シミュレートし、予行演習なり練習なりをして備えることがいかに有効で大切か、よくわかる話だと思うのです。名刺交換一つでもそうですが、漢字の学習も興味深いですね。今まで自分の周囲にあふれていたその漢字も、こちらに学習を通じて持つことになった意識や関心がなければ全く目にも入らず見過ごしていたのですから。「思っていたことが不思議に現実に起こる」と言っておいでですが、これは不思議なことではなく、自分の姿勢によって自分に結びついてくるのですね。
例えば「お教化のご縁」をいただくのもそういうことでもありましょう。こちらに、そういう縁を想定し、それに対応する準備・努力が全くなければ、縁があってもそれと気付かず通り過ぎているのでしょう。電車の中で「サッと席を譲る」といったちょっとした行為も、イメージトレーニングを含めた稽古の有無で決するでしょうし、参詣の往復の道などで知人に会って「どこへ」と聞かれて「お寺よ」「御講参りの途中よ」等ととっさに自然に返答する、そういった会話ひとつでも、普段からそのつもりでイメージしているのといないのとでは違ってきます。


こうしたことを踏まえつつ、結縁、奨(将)引、ご披露、御講席でのお給仕や準備などについての「稽古」の大切さについて、さらに次回で申しあげたいと存じます。

 

○仏祖のみ教えを定規として心を一つに

 先月まで二回にわたって「懺悔の大事」のテーマで記し、『妙講一座』の「五悔(ごげ)の要文」を中心として、当宗の懺悔について概説いたしました。そこで申しましたのは〈『妙講一座』の五悔の要文は、全体として「凡夫から菩薩への生まれかわり、成長の姿」として頂戴することができ、そこに当宗信者のあるべき姿、モデルを拝見することができる。そして、そういう拝見のしかたも『妙講一座』に対する私共の理解を助ける上で有効な方法ではないか〉ということでした。また世間では懺悔というと暗いイメージで受け取られる傾向があるけれど、元来は「深い反省と改良」であり、本当の懺悔ができるということは、むしろその人にとっての「改良と成長の基(もとい)」であり「精神の若々しさの証明」であるとも申しました。なお先月記した「懺悔の基本的要素」の中で、凡夫を「方角を誤った旅人」に譬えましたが、これも懺悔の基本を理解する上で大切なことですので、少し補足しておきたいと存じます。


当宗における最も根本的な謗法は「妙法に対する不信・違背」です。正しい信心は、御本尊(妙法)に向かってまっすぐに正対し、迷うことなく素直に求め進み続けるものです。そういう姿勢やあり方を、正しい目的地に向かう旅人に譬えたのです。目的地に向かって正対し、まっすぐ進むことが大切で、それを導いてくれる案内書が先師の「御指南」です。「指南」とは元来「磁石」「コンパス」の意で、古代中国で磁石を車に乗せ、これを「指南車」といって南北の方位を確認しつつ進んだことに由来する言葉なのです。


例えば南にある目的地に誤りなく到達しようとするなら、何よりもまず南に向かって、その方角を見失わないようにして進み続けることが肝心です。「無始已来の謗法」というのは、過去遠々劫来(おんのんごうらい)今日まで、ずっと御題目に背を向けてきた(これを法華違背(ほっけいはい)と申します)、意識の有無に関係なく背(そむ)いてきた(御法を謗る=謗法)ことを意味します。根本的な罪とその障り(罪障)は他でもないここに起因するものです。この違背(方角違い)の誤りを自覚し、深く反省して方角を正す(心の向き。信心の改良)と共に改めて正しい方角に向かい、目的地に到達するまで(仏身に至[いたる]まで)、もう迷わず進み続けることを誓うのが、他でもない「惣(そう)懺悔文」ともいわれる「無始已来」の御文なのです。


「謗法の根本は角度にある」というのはこういう意味です。ちなみに、角度・方角というのはほんのわずかの相違や狂いでも場合によっては大変なことになります。最近NHKで「シルクロード」のシリーズの再放送をしていますが、その一つで、沙中の古代遺跡を求めた探検隊のキャラバンが、コンパス(羅針盤)と古い地図だけを頼りに進んでいたところ、わずかの誤差で遺跡の五キロ横を通り過ぎ、道を失って大変危険な状態になった姿が紹介されていました。不案内な旅で、不正確な地図を頼りにすると現地の案内人ですら、わずかの角度の違いで恐ろしいことになるのを改めて教えられたように存じます。


まず御題目(御本尊)に向かって自らの信心の角度をぴったりと定めること。そして仏祖のみ教え(御指南)を定規として、方角を誤らないように進んでゆくことが大事なのです。懈怠(けだい)は進むのを怠ることですから、角度を誤る(根本謗法)のに次ぐ謗法になります。「懈怠は謗法」というのはこの意です。その他の大小様々な謗法は、不信・疑迷(ぎめい)や懈怠に付随して出来(しゅったい)するものです。


さて、先程、シルクロードのキャラバンのことを記しましたが、例えばこうした困難な旅で目的地を目指す場合に、もう一つ基本的に大切なのがその集団一行が心を一つにしていることです。これを信行用語で「異体同心(いたいどうしん)」と申します。先のキャラバンでいえば、隊長はじめ隊員(学問的な専門家、コンパスの係、医師、物資・資材の係、現地案内人、通訳、ラクダの御者等々)やラクダまでが一心同体の強固なチームワークを組んで目的地を目指します。もし何かあれば全員の命に及ぶ危険を共にしているのですから、その大切さは想像に難くありません。共々に成仏という大きく困難な目的地への到達を期すお互い佛立教講にも、実はこのキャラバンと同様の異体同心・一心同体が求められているのです。


○異体同心の要件は共感と信頼

 


異体同心について高祖日蓮大士は次のごとく仰せです。

 「異体同心なれば万事を成(じょう)じ、同体異心なれば諸事叶(かな)ふ事なし。(乃至)日蓮が一類は異体同心なれば、人人すくなく候へども、大事を成じて一定(いちじょう)法華経ひろまりなんと覚おぼ)(へ候」    (異体同心事・昭定八二九頁)

「総じて日蓮が弟子旦那(だんな)等、自他(じた)彼此(ひし)の心なく水魚(すいぎょ)の思(おもい)を成(な)して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱(となえ)奉る処(ところ)を生死(しょうじ)一大事の血脈(けちみゃく)とは云ふ也。然(しか)も今日蓮が弘通する処の所詮(しょせん)是也。若し然らば広宣流布の大願も叶ふべきものか。剰(あまつ)さへ日蓮が弟子の中に異体異心の者これあらば、例せば城者(じょうしゃ)として城を破るが如し」

(生死一大事血脈抄・昭定五二三頁)


「異体同心」は一般的には「夫婦・朋友などの心が相一致していること」(諸橋・大漢和辞典)だとされますが、当宗の意味はただそれだけではありません。凡夫が凡夫の心で心を一つにする同心ではなく、仏祖のみ心、み教えを一人ひとりがいただくことを根幹として、心が一つになることであり、その目的は自他の成仏つまり妙法弘通による浄仏国土の実現なのです。端的に言えば、「日蓮と同意(どうい)ならば地涌(じゆ)の菩薩たらんか」(諸法実相抄)の「同意」となることなのです。

 宗風第九号(異体同心)に「宗門人は異体同心のけいこを常に心がけ、家庭内の信心増進と役中の結束、僧俗一体の本旨を発揮し、弘通の大願成就につとめる」と定められているのも同じ意味で、同第十号の「浄仏国土」を期しての「異体同心」なのです。

「異体同心」が大切であると同時に、それが破られることの恐ろしさは原始仏教教団以来説かれてきたことで、仏教説話にもそれを説くものが多数あります。そのいくつかを紹介しておきます。


①「雪山(せっせん)の共命鳥(ぐみょうちょう)の話」

    雑(ぞう)宝蔵経第三巻(大正蔵四巻・四六四頁上)

 昔ヒマラヤに体は一つで頭が二つある共命鳥がいた。ところがある時、一つの頭が美味しいものを食べるのを見て嫉(ねた)んだもう一方の頭が、相手を苦しめようと毒を食べた。結果相手も自分も一緒に死んでしまった。


②「蛇の頭と尾の話」

    百喩経第三巻(大正蔵四巻・五五一頁上)

 ある時、蛇の尾が頭に向かって「いつも頭が先に進み尾がついていくのは面白くない。一度尾を先にして進ませろ」と言い、近くの木の幹に巻きついて進めなくしてしまった。仕方なく頭が折れ、尾が喜んで先になって進んだところ、たちまち火の坑(あな)に落ちこんで、その蛇は焼け死んでしまった。


③「
鴿((はとはと)の夫婦の話」

    百喩経第四巻(大正蔵四巻・五五七頁上)

 ある処に仲のよい鴿の夫婦がいた。秋、冬に備えて二羽で木の実を巣一杯に蓄えたが、日を経るにつれてカサが減り、半分程になってしまった。雄は雌がかくれて食べたのだと思い込み、雌の必死の弁明も許さず突つき殺してしまった。ところがその後数日して雨が降ると、木の実が水気を吸って元通りの量に戻った。これを見て雄は誤りに気付き嘆(なげ)いたが、もう取り返しはつかなかった。


①は一体の組織で嫉むことの愚かさを、②は役割分担の大切さを、③は疑いと怒りの恐ろしさや、落ちついて真実をよく見定めることの大切さを諭(さと)すもので、いずれも異体同心の具体的なありよう、視点を教える説話です。

 近くは日本の第一次南極越冬隊の隊長を勤め、日本隊初の南極越冬を成功に導いた故・西堀榮三郎氏の例も紹介しておきましょう。

 西堀氏は「雪山讃歌」の作詩者といえばわかり易いかと存じます。旧制三高の時代に来日したアインシュタイン夫妻の京都での案内役を勤めたことが物理学等へ向かうきっかけともなった由で、京大の助教授までなりながら、「もっと多くの人の役に立ちたい」と民間会社に入り、国産真空管第一号となった「ソラ」を発明。その後も様々な発明をし、日本山岳会会長、日本ネパール山岳会会長も歴任。チョモランマ登頂に際しては総隊長となり、七十歳を超えて自力で五千メートルまで登って指揮をした方です。同氏が次のような言葉を残しているのです。


「チームワークの要件は、目的に対する共感、誇りと恥の意識である。(中略)抜け駆けの功名では、困難な仕事は達成できない」

「同じ性格の人たちが一致団結していても、せいぜいその力は『和(わ)』の形でしか増さない。だが、異なる性格の人たちが団結した場合には、それは『積(せき)』の形でその力が大きくなるはずだ」〈プロジェクトX『リーダーたちの言葉』 NHKプロジェクトX制作班・今井彰・文芸春秋刊・一三三頁〉


「異体同心」とは、浄仏国土を目指して心を一つにするという、この上なく大きな目的の達成を期したプロジェクトにおいて求められる「構成員の結束」、「チームワーク」だとも申せます。教務はもとより、お役中やご信者も、各自がそれぞれプロジェクトの各部門や各レベルの指導者であり構成メンバーであるわけです。キャラバンも、越冬隊も、登山隊も、同じところがあるわけです。そこで求められるのが、まず同じ目的に向かう「共感」であり、相互の「信頼関係」なのであって、これを破り崩す行為がチームワークの大敵となるのは当然です。共感と信頼を破ることに対する「恥」を知る意識が重視されるゆえんです。これは日蓮大士が「城者(じょうしゃ)として城を破るが如き」行為を背信、裏切りとして忌まれたことと通じます。これが仏教で古来「五逆(ごぎゃく)罪」(①殺父[せっぷ]②殺母[せつも]③殺阿羅漢[せつあらかん]④出仏身血[すいぶっしんけつ]⑤破和合僧[はわごうそう])の第五、最大の罪悪として無間(むけん)地獄に堕(お)ちる罪とされたのもうなずけます。開導聖人が『常講歎読滅罪(じょうこうたんどくめつざい)抄』で、信者堕獄の三箇条として「第三下種の教相(きょうそう)習い損じの事」と「人法一箇(にんぼういっか)といふを忘れて人(にん)を捨(すつ)るの事」に次いで「異体同心と口にのみいひて我慢つよく同破(どうは)の事」と厳しく誡められる理由もここにあります。ここでいう我慢(がまん)とは、凡夫の我執、慢心であり、仏祖のみ教えに素直に随従できない心です。凡夫の我(が)、私(わたくし)の考えが同破(破和合僧)つまり異体同心を破る主たる要因だと仰せなのです。


教務はもとより、お役中、ご信者一人ひとりが、仏祖のみ教え、御指南をこそ定規として我・私の考えを抑(おさ)えて結束を図ることが大切なわけで、特にメンバー、構成員の信頼を破り疑念を生ぜしめるような言動・振る舞いは結局「共感」を失わせ、同破に至らしめる行為となる点で、よくよく注意が必要だと申せます。


佛立教講ももちろん十人十色で、顔も違えば性格や能力も違い、年齢や経験、信心の厚薄(こうはく)も文字通り千差万別です。しかし、そのような異なる性格や能力の人が一つの目的に一致団結すれば、同じような人がただ集まっても単に足し算の和(わ)にしかならないのに比べて、掛け算の積(せき)の如く大きな力を発揮し得るのです。

相違を認めつつ、信心のみ教えにおいて、弘通の大願成就という大目的に向かって、異体同心になることの偉大さ、大切さはここにあると申せます。

 


開導聖人の御教歌・御指南を最後に頂戴しておきます。

○御教歌 

 むかしより味方のこゝろそろはずに

       軍(いくさ)に勝(かち)し事はあらじな

 「当講の盛衰、心の同不同による」(開化要談十・扇全十三巻二四六頁)


○御教歌 御題・人数の多少によらず異体同心は御弘通の基本也

  中々にみのり弘むる邪魔ならん

        異体異心の人の多きは

                         「組長の徳・不徳によること也」(御弟子旦那抄下・扇全十四巻八六頁)


○「されば信者といへども異体同心の信義なき人は、仏にも祖にもいつはる人也」

(教導要義一・扇全十六巻八一頁)


○御教歌 御題・信心の厚薄(こうはく)

  人心(ひとごころ)其(その)人々にちがふ也

     おなじかほなる人しあらねば

(鄙振[ひなぶり]一席談・扇全九巻一五三頁)


「異体同心の信義」が大切であり、「組長の徳・不徳によること」だとも仰せです。これは特に教務やお役中などリーダーたるべき者が信義に悖(もと)る言動をし、背信的な行為を行えば、信頼関係を損ない、共感を失わしめることとなって、結局「同破」の罪を犯すことになるから十分心せよという誡めであり、「徳・不徳による」というのもその意味での「信頼関係の有無」を問うておられるのだと拝見いたします。第一回目で「信心に基づく公正さを大切に」と申しあげたこととも密接に関係するのが「異体同心」なのです。

⑭懺悔(さんげ)の大事 (2)
2013年9月27日(金)
 

―改良と成長の基(もとい)・精神の若々しさの証明―


○懺悔の基本的要素


 先月号では、懺悔こそ信行生活の基本精神であり、『妙講一座』の「無始已来」の御文から「願くは生々世々」の御文までの全体(五悔[ごげ]=懺悔、勧請[かんじょう]、回向[えこう]、随喜[ずいき]発願[ほつがん]の各段の御文)を一貫し、通底するのも他ならぬ懺悔の心であることを概説して、この御文全体を、「凡夫から菩薩への生まれかわりの姿」として頂戴し、あるべき信者の姿、モデルとしていただくのも、『妙講一座』に対する私共の理解を助ける上で有効な、一つの拝見の仕方ではないかと申しました。

今月は「懺悔そのものの意味」について記すのですが、これも理解と整理を助けるために、「懺悔」を、その基本的な要素に分かって説明してみたいと存じます。

天台大師は「懺とは先悪(せんあく)を陳露(ちんろ)するに名(なず)け、悔とは往(おう)を改め来(らい)を修(しゅ)するに名く」(摩訶止観第七下)と釈されています。先悪とは今日までの過去に犯した悪業(あくごう)のことです。陳(ちん)とは申し述べる、言葉で説明する(開陳、陳述、陳弁)する意であり、露とはあらわにする(吐露、暴露、露出、露見)意ですから、陳露とは、これまで覆(おお)い隠され、知られずにきたことを、誰にもわかるよう余さず露(あらわ)にし、隠さずすべて告白することです。

告白の相手は第一に御宝前(仏祖)であり、第二に人びと(お教務・ご信者方)です。

「往を改め来を修する」とは、来(こ)し方・過去の反省をふまえ、その償(つぐな)いとして、今後未来にわたって善行を実践することです。もちろんこうしたことの前提として「罪の自覚」を要するのは当然です。

 要は「罪の自覚とその告白、そして深い反省に基づく改良の実践」が懺悔の基本的な要素なのです。


○佛立宗の懺悔

A 何を懺悔するのか
・根本の誤り(謗法罪)の自覚とその修正の大事

 まず懺悔すべきは妙法不信(謗法)の罪です。お互いの命の根源ともいうべき妙法を信ぜず、誤った生を繰り返す中で重ねた罪(根本罪障)を懺悔するのです。しかし、この罪の自覚は容易ではありません。罪障が自覚を妨(さまた)げているからです。ですから、罪が自覚できず妙法を素直に信受できないことが、お互いの魂が罪で汚されている何よりの証拠だと知らねばなりません。それはあたかも、アルコール症の中毒患者が自分では自覚し難いのと同じです。ましてや周囲がみな同じ病気なのですからなおさらです。

 お互いは「方角を誤った旅人」、あるいは「脱線した列車」にも譬えられます。進んでいるつもりが、目的地からは離れるばかり、いや前進すらできず無駄な労力を費やしているのです。一刻も早くそれに気付き、方角を正し、レールを復旧して乗せ直さねばなりません。根本さえ正せば、ずっと楽に本来の目的地に到着できるのです。ではどうすればこの罪障を消滅させていただけるのでしょう。

B どう懺悔するのか

・口唱即信心 経力で罪滅

 妙法口唱こそ唯一まことの懺悔の方法です。背離してきた源に還ることです。自覚できず、信受し難いお互いですが、強いてまず口にお唱えするのです。永遠のみ仏の命が、口業[くごう](声)を通してお互いの魂の底の底にまで達し、眠っている本来の生命を揺り動かし、呼び覚ますのです。これが妙法の経力です。我執(がしゅう)を押え、とにかく口唱信行を実践することが大切です。坐禅、苦行、読誦その他の修行は、脱線した列車をそのまま押すのと同じです。


○改良と成長の基(もとい)―精神の若々しさの証明


 開導日扇聖人は御指南に仰せです。

「懺悔の心起(おこ)る時には我(が)なし。我を捨(すつ)る時に信起る。信起る時御利益を頂く。御利益を頂て弥(いよいよ)信を生ず。懺悔の心の起る時最初也」

(開化要談九・扇全十三巻二二〇頁)

「懺悔改良といふ其こゝろは、こぞの古葉残りなく落(おち)て若葉さすみず(瑞)枝(え)のごとし。古葉残りなくと云々 心を留(とどめ)よ。のこりなきを懺悔といふ。若露塵斗(もしつゆちりばかり)旧弊(きゅうへい)の悪あれば懺悔しても御利益なし」

(見せばやな・扇全九巻七七頁)


一般には、懺悔というと暗いイメージを伴うようです。そこでこれを茶化して反対に笑いを誘っているテレビ番組もあります。しかし法華経本来の懺悔の根本には生命の躍動する輝きがあるものです。人間としての本当の成長=生の充実をもたらすものだからです。真の懺悔は苦悩を伴います。しかし、その苦悩の向こうには明るい新たな地平が開けているのです。その意味で懺悔は、本来の自己に目覚める自己改革の営みであり、成長の母胎なのです。そんな懺悔ができるのは、精神の若々しさ、柔軟さの証明だとも申せましょう。


凡夫の「
(が)」「慢心」を捨て切り、たとえほんのわずかでも悪を残さないのが肝心であるとも仰せですし、「去年(こぞ)の古い葉を全て落とし切ってこそ、瑞々(みずみず)しい若葉や若枝が出てくる」との譬えも新鮮です。例がよくないかもしれませんが「何一つ残さぬことが大切」というのは、サラ金などの借金にも似ているのではないでしょうか。


○常日頃の懺悔の大事

 着物を着れば知らぬ間に袂(たもと)にごみがたまります。人間も生きて活動している以上、必ず過(あやま)ちを犯しているのです。また、御戒壇(ごかいだん)には毎日塵(ちり)がつもりますが、それを日日ふきとっていけば光ってきます。ほおって置くと駄目になり、常に改めていけば次第に輝き出すのがお互いです。日常平生の懺悔の大切さも忘れてはなりません。


最後に「宗綱」第十三条(宗風)第七号「懺悔」の条文も掲げておきます。

「『懺悔(さんげ)は起信(きしん)のスガタ也』のみ教えを体し、妙講一座の要文(ようもん)に示された看経勤行(かんきんごんぎょう)によって常に心を清浄(しょうじょう)にし、改良と信心向上につとめ、経力(きょうりき)、仏力(ぶつりき)を蒙(こうむ)る滅罪生善(めつざいしょうぜん)の口唱行に励む。」

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