ヒマラヤ・ユキノシタです。
2015年2月12日(木)
 

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 今年も咲きました。でも、昨年よりは花が少ないみたい。(J・M)

 

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 ウチの、鉢植えのクリスマスローズ()ですが、なぜか花茎が伸びず、低いところで咲いてしまいます。葉の上で咲いて欲しいのだけど、良い方法は無いのかな?(J・M) 

㉖「無常」を忘れずに
2015年1月8日(木)
 

―だからこそ日々を大切に―


○「諸行無常」―今の大切さを知って―

 前回は「御講こそ弘通の根幹」のテーマで『年頭のことば』の一節もいただきながら、「御開講の本旨(目的)」や「御講の本義」、「開講聖地」等について触れました。その際「付記」として末尾にこの「新役中入門」シリーズの既出のテーマの中で、特に参照しておいて欲しいと思うものをいくつか掲げさせていただきました。

 その中でも「参詣の大事」1)~(3(シリーズ通番⑤~⑦・平成14年5月号~7月号)はもう一度併読いただければと存じます。特に「参詣の大事」(1)で触れた「道場の能所(のうじょ)」と「環境の大切さ」については、お役中にはよく心得ておいていただきたいと存じます。そこでくどいようですが念のため、このシリーズの⑤で紹介させていただいた御指南の一部を再度引用いたしておきます。それは平たく言えば「なぜお寺や御講席まで参詣することが必要なのか」「自宅でのお看経とどう違うのか」という疑問に対する開導聖人の回答とも申せます。それが()「道場の能所(のうじょ)」と()「環境の大切さ」ということです。

 

()については次のように仰せです。

「御法門心得(こころえ)違(ちがい)せる人の曰(いわく)

遠き所を日参は無益(むやく)の事也。我家(わがや)に本尊あり、道場と云(いう)。家内にありと云々。 道場に能所(のうじょ)ある事を知らず。」

(能所不二[ふに]の上に而二[にに]なりの事・扇全17338頁)

 お寺や御講席と平生の自宅の御宝前の間(ま)とは、なるほど「道場」という点では同じ一つのもの(不二)だけれど、同じ道場でも能所[のうじょ](本[もと]と末[すえ])の区別がある(而二)。道場という名はなるほど同じだが、やはり本を大切にするということを忘れてはならない、という意です。

 

()に関する御指南は次の通りです。

「(乃至)されど家にありては心の散事(ちること)多し。又、歴縁対境紛動(りゃくえんたいきょうふんどう)す。凡夫(ぼんぶ)の向ひ奉る所、必ず其(その)向ひ奉る境(きょう)によりて信の起る故に、参詣には利あり。」

(三界遊戯抄一・扇全6333頁)

 

「歴縁対境紛動」の語は天台・妙楽の釈に記されている語です。要は凡夫は縁により環境によってすぐ心が紛(まぎ)れ動くことを申します。因みに「境」は「智」に対する語で、一般的に「場所・環境」を意味します。「智」は意識・知覚を持つもの、つまり生き物をさします。「智」を「主体」とすれば「境」は「客体」に相当するとも申せます。仏教では「境智一如(きょうちいちにょ)」といって環境とそこに住む生物とは、実は相互に深い対応関係があり、一体のものだと把(とら)えます。例えば仏と寂光、凡夫と娑婆という対応関係です(だから凡夫が成仏すれば、娑婆も寂光となるわけです)。人と環境とは元来こういう相応関係があり、相互に大きな影響を及ぼし合っているわけですから、お寺の本堂や御講席という環境に身を置いているときと、自宅に居るときとでは、同じ人でも自然に心のありようが違ってくる。だから参詣すれば「必ず其向ひ奉る境によりて信の起る」という効果があることを知らねばならないよ、と諭されるのです。「なぜ学校へ通う必要があるの。家でその分勉強した方が合理的だ」などという生徒に対しても同じ観点からの回答ができそうですね。

 

 こうしてみると、お寺や御講席の環境は随分大切ですね。御講席のあり方や雰囲気(ふんいき)等、広い意味での「場づくりの大切さ」も、お教務やお役中を中心に改めて考え、見直し、大切にしてゆく必要があります。参詣した人が信心を起こし、増進してゆく環境であることが求められているのですから。

 

 さて今回は「無常を忘れずに」というテーマです。無常は「諸行無常(しょぎょうむじょう)」つまり宇宙も含めたこの世のあらゆる存在・現象はすべて常なく変化し、一瞬もとどまることなくうつろっていくものである、という真理です。もちろんこの「すべて」の中に自分自身も当然含まれています。

 

 この「諸行無常」は元来、仏法が、他の教えと異なる「仏法としての範疇(はんちゅう)」を判定する基準とする「三法印(さんぼういん)」(諸行無常印、諸法無我[むが]印、涅槃寂静[ねはんじゃくじょう]印)の第一印(いん)で、いわば仏法が他の教説に対して仏法たることを示す「旗印(はたじるし)」ともなるべき根本的な、そして基盤として立脚する真理です。日本にも当然仏教と共に伝わり、その「無常観」は特に平安期以降一般にも広く伝わっていきます。「無常観」が『源氏物語』から『平家物語』を経て『奥の細道』に至るまで、多くの日本文学の底流をなす大きな思想となっていることも周知の通りです。

 その一例として『徒然草(つれづれぐさ)』の一節を見ておきたいと存じます。

 

○『徒然草(つれづれぐさ)』に見る無常観

 

『徒然草』はご承知の通り吉田兼好[よしだけんこう](1283?~1350)の随筆で、研究によれば1330年~1332年の頃の執筆だとされています。高祖日蓮大士[だいじ](12221282)の御入滅の翌年ころ生まれ、門祖日隆聖人(13581464)がご誕生になる35年前に亡くなっていますから、高祖と門祖のちょうど中間あたりを生きた人です。

『徒然草』は全部で243段からなっていますが、全体を通じて看取される基本的な思想の一つはやはり仏教の無常観です。例えば次のようにあります。

 

○第百五十五段

 

「生(しょう)・住(じゅう)・異(い)・滅(めつ)の移りかはる実(まこと)の大事は、たけき河のみなぎり流るゝが如し。暫(しばし)も滞(とどこお)らず、ただちに行(おこな)ひゆくものなり。されば、真俗(しんぞく)に付けて、必(かなら)〈ず〉果(はた)し遂(と)〈げ〉んと思はん事は機嫌(きげん)をいふべからず。とかくのもよひなく、足を踏(ふ)み止(とど)むまじきなり。

 春暮〈れ〉て後(のち)、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。(中略)生・老・病・死の移〈り〉来(きた)る事、またこれに過〈ぎ〉たり。四季はなほ定〈ま〉れるついであり。死期(しご)はついでをまたず。死は前よりしも来(きた)らず、かねて後(うしろ)に迫(せま)れり。人皆死ある事を知〈り〉て、まつこと、しかも急ならざるに、覚(おぼ)えずして来(きた)る。沖(おき)の干潟遥(ひがたはる)〈か〉なれども磯(いそ)より潮(しお)の満つるが如し。」

(岩波・古典文学大系30218頁)

 

※「生住異滅(しょうじゅういめつ)」(四相)…物が生じ、止(とど)まり、変化し衰え、滅する現象。※「たけき河」…水勢の激しい川。※「行ひゆく」…実現してゆく。※「真俗」…真諦[しんたい](仏法)と俗諦[ぞくたい](世俗)のこと。※「機嫌」…好機・潮時。

※「もよひ」…ためらい。※「ついで」…順序。

「四季にはまだ順序というものがあるが、人の生老病死、特に死期には順序はない。決して前から予告して次第に迫ってくるのではなくて、いつのまにか自分のすぐ背後に迫っているのだ。人はいつか必ず臨終のあることを知ってはいるのだが、まだまだだと思っているうちに突然の死が訪れるのだ。それはあたかも遠浅の海辺で沖の干潟はまだまだ遠く広がっていると安心していたら、あろうことか自分の居る岸辺の磯の方から潮が満ちてきて足もとをすくわれ、驚き慌てるようなものだ。」(概訳・向井)というのです。実に分かり易く説得力のある文章で、『徒然草』の中でも名文の一つとされるのも当然だと思います。なお、遠浅の海での満潮の譬えも、海辺で海水浴や潮干狩をしたことのある方なら、自分の経験に照らしても得心というか、よく腑(ふ)に落ちる例かと存じます。

 

○第二百四十一段

 

「望月(もちづき)のまどかなる事は、暫(しばら)〈く〉も住(じゅう)せず、やがてかけぬ。心とゞめぬ人は、一夜(ひとよ)の中に、さまでかはるさまもみえぬにやあらん。病(やまい)のおもるも、住する隙(すき)なくして、死期(しご)既に近し。されども、いまだ病(やまい)急ならず。死におもむかざる程は、常住平生(じょうじゅうへいぜい)の念に習ひて、生の中におほくの事を成(じょう)じて後、閑(しずか)に道を修せんとおもふほどに、病をうけて死門にのぞむ時、所願一事(いちじ)も成ぜず。いふかひなくて、年月(としつき)の懈怠(けだい)を悔(く)〈い〉て、この度若(もし)たちなほりて命をまたくせば、夜を日につぎてこの事かの事、おこたらず成じてんと、願をおこすらめど、やがておもりぬれば、我にもあらず取〈り〉みだしてはてぬ。このたぐひのみこそあらめ。この事、まづ人々いそぎ心におくべし。

 所願を成じて後、暇(いとま)ありて道にむかはんとせば、所願尽くべからず。如幻(にょげん)の生(しょう)の中に、何事をかなさん。すべて所願皆妄想(もうぞう)なり。所願心にきたらば、妄心迷乱(もうしんめいらん)すと知〈り〉て、一事をもなすべからず。直(ただ)〈ち〉に万事を放下(ほうげ)して道にむかふ時、さはりなく、所作(しょさ)なくて、心身(しんじん)ながくしづかなり。」   (同288頁)

 

※「いふかひなくて」…われながら不覚だと悟って。※「道」…仏道。※「所願」…ここでは目先の欲望や願い。※「如幻」…幻(まぼろし)の如くはかない意。十喩の一つで、他に「聚沫(しゅまつ)、泡、夢、影、浮雲」等がある。※「放下」…関係を断ち放つこと。※「所作」…ここでは身口意三業(しんくいさんごう)が発動した結果。また、それによる煩(わずら)いのこと。

「大概の人は皆、目前の欲望や願いを追って、結果何一つ物事を成就せぬまま死を迎えるのだから、この事をまず急いで心に銘じておかねばならない、あれもこれもと思う心はすべて妄想で自分を迷わせ惑乱(わくらん)させるものだと知って一切関わらないようにし、直ちに仏道に専念すべきだ」(概訳・向井)と強く明言しているのです。

 

 高祖の御妙判は、ほぼ同意のことをさらに徹底して示されます。

「夫(それ)以(おもんみ)れば日蓮幼少の時より仏法を学び候ひし(学びし候)が、念願すらく、人の寿命は無常也。出(いず)る気(いき)は入(い)る気(いき)を待(まつ)事なし、風の前の露尚(なお)譬(たとえ)にあらず。かしこき(賢)もはかなき(愚)も、老(おい)たるも若きも定め無き習(ならい)也。されば先(まづ)臨終の事を習ふて後(のち)に他事(たじ)を習ふべしと思ひて云々」

     (妙法尼御前御返事・昭定1535頁)

 

「無常」ということを私共の人生の上でとらえ対処しようとすれば、当然こうなるわけです。言われてみれば本当にこの通りなのですが、頭で理解していても、さて現実問題となると、これは難しい。「そうはいっても」というのがお互い凡夫の本音かと思われます。しかし、死期・臨終は厳然としてあり、それは高祖が『如説修行抄』(第六段)で「昨日(きのう)は人の上、今日(きょう)は身の上なれば[乃至]霜露(そうろ)の命(いのち)の日影(ひかげ)を待(まつ)ばかりぞかし」と仰せられ、さらに「一期(いちご)をすぐる事程(ほど)なし。[乃至]命のかよはんきはゝ南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱へて唱死(となえじに)に死ぬるならば」と仰せのように信心を決定(けつじょう)することが実に大切になるわけです。

 

○「無常」だからこそ大切な一日

 

 このように私共の命は無常です。「光陰矢の如し」であり「歳月(は)人を待たず」です。開導聖人も次の如く仰せです。

「信者の心得は気(汽)車の出るをまつ間の修行の事。○一生に一度の臨終也。

〈御教歌〉
常(つね)のなき娑婆(しゃば)の修行ぞ大事なる

  気車をまつまのごとくおもへば

 娑婆の五欲にめ(目)をくれて、もしや乗(のり)おくれたらましかば又次のといひがたし。詮なかりけり。」

(名字得分抄(中)・扇全14142頁)

「舟待ち」に譬えた同趣旨の御指南もございます。これもよく分かります。いつ出るかわからない、しかしいやでもどうでも乗らねばならず、しかもたった一便しかない自分専用の汽車や船を待っているのが私共だというのです。それに各自が乗る便は皆違うのですから、これは考えてみると大変なことです。だからこそ次のようにも諭されるのです。

 

御教歌
題・無常覚悟肝心(むじょうかくごかんじん)

 何時(なんどき)がしれぬもの故(ゆえ)信行の

  人が油断をせぬもよき哉(かな)

(開化要談(教)・扇全1432頁)

 

御教歌

   としたけていかにくゆともかへらぬを

   しりてつとむるわが身ともがな

 (拾遺)

 

御指南

「人間一生御弘通用の日数(ひかず)を一日もあだにくらさじと工夫(くふう)して御用を(つと)(つと)むべし。」

(百座法門一の二・扇全12213頁)

 

 高祖御妙判にも次のように仰せです。

「一日の命(いのち)は三千界の財(たから)にもすぎて候なり。[乃至]命は三千にもすぎて候。而(しか)も齢(よわい)もいまだたけさせ給(たま)はず。而(しかし)て法華経にあわせ給ひぬ。一日もいきてをはせば功徳つもるべし。あらを(惜)しの命や、をしの命や。」

(可延定業〈かえんじょうごう〉書・昭定864頁)

 

※「三千界」「三千」…ここでは「全宇宙・全世界」という程の意。

 なお開導聖人は翌明治237月のご遷化を控えた明治22年の年末頃次のような御教歌を示され、さらに後掲のお書き添えをなさっておいでです。

 

御教歌

   まかせても猶(なお)願ひある身也けり

           御法(みのり)の為に無病息災(むびょうそくさい)

「まかせては身に願ひとて更(さら)になし よきもあしきも法(のり)のまにまに とよみし事を([明治22年]117日によめり)。此頃(このごろ)思い出(いだし)て、さては菩薩の慈悲うすし。本因妙(ほんにんみょう)のためにも無病息災ならでは、御奉公心(こころ)に任せず。云々」

(名字得分抄(中)・扇全14141頁)

 

 最晩年の開導聖人が、少々体調もくずされた明治22年の11月に「法のまにまに」の御教歌を示されたあと、いや御法にお任せするにしてもただ任せ切りでは心得違いだった。何も自分自身の欲ではない、人助けの菩薩行のために、一日でも無病息災でご奉公をさせていただきたいと願うのが本来あるべき姿だったと、自ら反省され、詠(よ)み改められたというのです。

 これは実に大切なみ教えだと存じます。聖人ご自身が身を以て私どもに佛立信者のあるべき心得をお示しくださっているのですから。

 

○長寿高齢社会の中でのお役のご奉公は

 

 昨年(平成15年)末、世界保健機構(WHO)が2003年度報告として世界192ヵ国を調査し、世界の国の平均寿命を発表しました。それによると、日本は男女平均しての平均寿命が81・9歳、平均健康年齢が75歳で、いずれも世界一でした。ちなみに最下位はアフリカのシエラレオネという国で、平均寿命は男女平均で34・9歳です。

 こうしてみると、日本はシエラレオネの何と2.5倍近くの長寿であり、平均健康年齢でさえ平均寿命の2倍以上あるのです。それだけ恵まれた豊かないい条件に恵まれて私たちは暮らしているわけです。でももう少し考えてみれば、では日本人はシエラレオネの人の2倍も3倍も善い事を行い、有意義で幸せな人生を送っているかというと、必ずしもそうではないのではないかと思うのです。確かに大きな事業や仕事をやり遂げるためにはやはり少しでも長い時間がなくてはならないということもあります。しかし、30代で死ぬ人は有意義な人生を送れず、百まで生きれば意義ある人生だ、とも申せません。要は、願わくは少しでも健康で長生きをさせていただくと同時に、その与えられた時間をできる限り意義あるものたらしめたい、ということになるでしょう。これを佛立信者として申せば、せっかく人と生まれ、真実の大法にお出値いできたのだから、この御題目を自身がしっかり受持信唱させていただくと同時に、一人でも多くの人に伝えて、自他の真の幸せを求めたい、それこそが人と生まれ、凡夫でありながらも菩薩(ぼさつ)としての喜びと果報を頂く道であり、これに勝る大きな人生の意義はない、という人生観・価値観になるわけです。

 

 お役中は、願わくは、それぞれの限られた時間と人生の一日一日を、こうした意味で、無常を知り、また「だからこそ」、と大切にしていただきたいのです。これは信者として、あるいはお役中としてのご奉公はもとよりのこと、世法のあらゆることにも通じる大切な教えだと存じます。

 

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 裏庭のどうだんツツジが紅葉しました。やっぱり寒くなったのかな?間もなく新年だし。(J・M)

 

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今年は、特に沢山の実をつけてます。もうすぐお正月ですね。(J・M)

 

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 鉢植えの「姫リンゴ」ですが。大小取り混ぜて約20個くらいは結実してます。大きいので径3センチくらいかな?(J・M)

㉕「御講」こそ弘通の根幹
2014年12月3日(水)
 

―「御講から弘まる」「弘まる御講」―

 

 

○佛立開講150年を期し「御講の改良」を

 

前回は「好きこそ物の上手」のテーマで、信行を好きになることの大切さについて記し、あわせて「物事の上達はかけた時間に比例する」という松岡祐子氏(「ハリーポッター」シリーズの翻訳者)の「祐子の第一法則」や、「将来に向かっての楽しみ(志願〈しがん〉)を持つ」ことの大切さについても触れ、お役中はその平生のご奉公において、自身はもとより、一般ご信者の育成においても、こうした姿勢や方向性を忘れないようにして教え導いていただきたい旨申しあげました。

 


さて今回のテーマは「御講」です。

 申すまでもなく当宗は弘通集団であり、そのいのちは「妙法弘通」です。そしてその弘通の根幹が他でもない「御講」なのです。

 この「御講」が当宗にとっていかに大切なものであるかについて開導聖人は御教歌・御指南等で随所に仰せですが、そのいくつかを頂戴しておきます。

 

題・日蓮大士(だいじ)の御弟子旦那(おんでしだんな)と申すこゝろいかにと人のいひければ

御教歌
御弘通の御奉公とて外
(ほか)になし

      御講まゐりや又つとめたり

(講場必携・完・「妙法弘通」の段・扇全14192頁)

御教歌
講中
(こうじゅう)と成(なっ)

   御講へ参らねば

  講の外(そと)なる人とかはらず

(開化要談・用・扇全13430頁上欄)

御指南

○「我も唱へ人にもすゝむる道は御講を第一のご奉公となす。」

(冨木入道殿御返事お書入・扇全26183頁上欄)

○「当今(とうこん)の如説修行とは我も唱へ人にもすゝむる也。

  真実御弟子旦那の御奉公とは、我も御講を勤め、人の家にも参詣するが御弘通となる也。」
(講場必携・完・扇全14巻197頁)

 

 因みに現在の当宗の宗内法規(宗制)の中でも最高規範とされる「宗綱(しゅうこう)」と「宗法」にも次のように定められています。

「本宗は、御講を弘通及び信行錬磨(れんま)の道場とする。」

(宗綱第12条「御講」)

「御講は、弘通及び信行増進、人格向上の道場である。」

(宗法第21条第2項)

「本宗の信徒は、進んで御講を勤修(ごんしゅ)し、努めて助行に参加して、教化弘通にはげまなければならない。」 

(宗法第23条)

 

 既にご承知のごとく、当宗は平成18年にお迎えする佛立開講150年を期して、昨年来、「御講から弘まる」をスローガンとしてその奉讃ご奉公を進めさせていただいており、昨年(平成15年)10月には宗務本庁に奉賛局も設けられていよいよ本格的なご奉公が進められつつあります。このことは講有上人の今年の『年頭のことば』にも、次のごとく示されています。

〈さて本宗は、開導日扇聖人による安政(あんせい)4112日のご開講から数えて、来る平成18年に150年の記念すべき年を迎えます。

 ご開講は、末法時機相応の妙法五字をもって一切衆生を救済せん、との大慈大悲のご奉公であります。この時にあたって、全宗門人は今(いま)一度ご開講の本旨(ほんし)を再確認し、一層ご弘通に精進(しょうじん)しなければなりません。

 本宗では昨年来、「御講から弘まる」とのスローガンを掲げ、宗門をあげての「御講の改良」を期しております。

「御講から弘まる」―これはご弘通の原点は御講であり、御講こそ信心増進、信行錬磨(れんま)、弘通意欲高揚(こうよう)の道場であることを端的(たんてき)に示すものです。本当の「弘まる御講」にするためには、まず教務諸師が今まで以上に御法門の研鑽(けんさん)に努め、行学二道(ぎょうがくにどう)に精励(せいれい)しなければなりません。またご信者も、御講の参詣に一層励むことが、御講の改良の基本となるのであります。(後略)〉(平成16年『年頭のことば』部分)

 

○ご開講の目的(本旨)と御講の本義

 

 佛立開導日扇聖人が安政4年(1857)1月12日に最初の御講を奉修され、当宗をご開講されたその目的は「宗祖出世(しゅっせ)のご本懐、上行所伝の御題目を広宣流布せしめんが為」(万年永続繁昌記・扇全6巻82頁)でした。したがって「御講」は、法華経本門の久遠(くおん)のみ仏・蓮隆両祖のご本意である「妙法弘通による末法の一切衆生の救済」のための「弘通の道場」であり「信行錬磨(れんま)の道場」なのです。これこそ御講の本義に他なりません。

 

 開導聖人は「御講席は派出所の如し。弘通処也。折伏教化の所也。講内信者の参詣は御弘通の御奉公也」(御講緊要・扇全17334頁)とも仰せです。

「派出所」の意は、根本道場たる本山や各寺院は常設の道場であるが、ご信者宅でも御講席となればその時はその席が道場となる、との意です。これは他のご信者のお宅を借りての御講でも基本的に同じです。

 なおご開講について付言すれば、開導聖人は次のごとく仰せです。

「これは八品堂(はっぽんどう)の席 第一はじめの御講聴衆四人也。後此講(のちこのこう)万人(まんにん)を以て数(かぞえ)んずと思ひおきてたり。」

(清風一代記略図・扇全5202頁)

 このご開講の御講席は、当時の京都の新町蛸薬師(たこやくし)下ル西側(現・京都市中京区錦小路(にしきこうじ)上ル百足屋(むかでや)381番地)の千切屋(ちぎりや)・八品堂・谷川浅七(たにがわあさしち[]宅でした。参詣者は谷川氏夫妻を初め4人とも6人とも記されています。

 

 ちなみにこのご開講の地は、昭和60年に当宗が求めて入手し、昭和61年3月28日に、時の講有であられた第18世講有日地上人の導師のもと「開講聖地(本門佛立宗開講聖地)奠定(てんてい)式」が執行され、「開講聖地」として正式に定められ、以来荘厳管理されています。余談にわたりますが、当時筆者も総務局で主事のご奉公をさせていただいており、当日、本山宥清寺に格護されていた「開講の御本尊」を堀田承要師と共に聖地までお供し、奉安させていただきました。そういうわけで「開講の御本尊」を間近で拝見させていただいたのですが、護持者の氏名は「谷川浅七郎」と記されておりました。もっとも「郎」というのはいわば「男子」の一般的な呼称ですから(例えば「源九郎義経[くろうよしつね]」の「九郎」は、父・義朝[よしとも]の九番目の男児の意)、開導聖人当事にあっても「郎」は省略しても差し支えなかったかと存じます。現に開導聖人も、ご承知の上で、御指南等では「浅七」と記されておいでです。

 

○当宗信行のすべてがこもる御講の大切さ

 

―悦んで勤修・参詣を―

 御講には、口唱、祈願、回向、大恩報謝、布施供養、御法門聴聞(ちょうもん)、奨(将)引、育成、法燈相続、教化等、当宗の重要な信行ご奉公のすべてがこもっています。この御講の重要性をまず再認識し、奉修と参詣の両方に精一杯尽力し、心を尽くすことが大切なのです。

 開導聖人は御指南に仰せです。

「我もつとめて 他参もか(欠)けず

○御講 他参せず   我つとむ

    我つとめず  他参する

 他をさそふあり さそはぬあり

 チラ  参り  勝手づとめ

   (乃至)

 されば弘通広宣を思ふ信者、当講繁栄を思ひて御講の為に心を尽(つく)し参詣をもして人に勧(すす)め云々」

(三界遊戯抄三・扇全6巻372頁)

○「悦(よろこ)んでつとめ 悦んで供養す。

   悦んで参詣し 悦んでう(受)くる。

 此の一事を常にかへりみよ。」

(要法は根本本地なる事・扇全1783頁)

 

○まずお役中から率先改良を

 

 当宗のいのちは妙法弘通による衆生救済であり、当宗は弘通集団です。その当宗の根本こそ御講であり、御講こそが当宗信行の根幹なのです。その御講のあり方は、何といってもまず、お教務とお役中の姿勢や努力、熱意にかかっています。「弘まる御講」となるよう、まずお役中から率先して各種の御講参詣・御講奉修に励み、奨(将)引にも努めさせていただくことが大切なのです。

 御講がご弘通の源(みなもと)であり、ご弘通の力となるよう改良・精進させていただきましょう。

 

※付 記

 なお「御講」に関連するものとしては、この「新役中入門」のシリーズの中でも既にいくつか触れています。その主なものを次に記しておきますので、参照していただければ幸甚に存じます。

◎「参詣の大事」(1)(2)(3)……シリーズ通番⑤~⑦(平成14年5月号~7月号)

(1)は「お寺参詣・御講参詣の大切さを知る」

   ※「道場の能所(のうじょ)」について

(1)は「参詣の要素」……「親近(しんごん)

(3)は「参詣の要素」……「給仕」

◎「懺悔(さんげ)の大事」(1)(2)……シリーズ⑬⑭

(平成15年1月号、2月号)

 御講で拝読する『妙講一座』の「五悔(ごげ)」の御文の概略等

◎「稽古(けいこ)の大切さ」(2)……シリーズ⑰

(平成15年5月号)

 特に、御講の参詣奨(将)引やご披露について。

㉔好きこそ物の上手
2014年11月19日(水)
 

―物事の上達はかけた時間に比例する―

 

○「好きこそ物の上手なれ」

 

前回は「妙法こそ大良薬(だいろうやく)」―色香美味(しっこうみみ)と五感(ごかん)の共働(きょうどう)―というテーマで、法華経如来寿量品第十六に説かれる「良医病子(ろういびょうし)の譬(たとえ)」を紹介しつつ、六根互用(ろっこんごゆう)・五感の共働について解説し、妙法五字が「色香美味 皆悉具足(かいしつぐそく)」たることを信心によって感得させていただくことの大事を記しました。

 今回は「ご信心の上手」になるには「好きになる」ことが大切で、そのためにはやはりこつこつとした「積み重ね」や「努力」がまず大切だということを申しあげたいと存じます。

 

さて「好きこそ物の上手なれ」とは人口に膾炙(かいしゃ)した諺(ことわざ)ですが、これを「ことわざ辞典」などでみると次のようにあります。

「好きこそ道の上手」「好きは上手の本(もと)」ともいう。好きであることが物事の上達の極意(ごくい)だということ。一方で「下手(へた)の横好き」など水を差すような諺もあるが、それにしても嫌いで上手になることはまずない。

 一般にどんな物事でも、好きになると関心が深まり、それに割(さ)く時間も長くなり、結果として腕前もあがるものである〉。(『岩波ことわざ辞典』)

〈技術を身につけるにはまず身を入れて修練に時間を注(そそ)ぐ必要があるが、好きなら身が入るだろうし、時間のやりくりにも一生懸命になるもの〉。(『ことわざの智恵』岩波新書・別冊)

 なるほど言われてみればその通りで、何でも上達する為には、身を入れ、時間もかけて続けることが基本です。好きになればそれが苦にならずにでき、そうなると上達も早く、尚張り合いも出て一層身が入る、という善い循環が起こり、ますます上達することになります。

 

 開導日扇聖人は御教歌に仰せです。

 御題・雨降りは車で参詣といふ

御教歌

 何事もすきこそ物の上手なれ

   いのちをさへにをしまざりけり

○御法にとりては此人仏祖のみこゝろに叶ふもの也。

(開化要談九・扇全13巻239頁)

 私共の信行ご奉公の上にも同様のことが申せるわけです。

 因みにこの御教歌・御指南等は明治22年の御筆です。

 御題の「雨降りは車で参詣といふ」とあるのは、後の御指南と合わせて少々説明がいるかと存じます。当時はもちろんどこに行くにも自分の足で歩いていくのが当たりまえの時代です。ところがその日は参詣しようにもひどい雨。まだ道路も舗装などされておらず、道は泥々にぬかるんでおり、しかも着物姿です。参詣ともなれば、衣服もきちんと改めて参るのが当然でした。そんな姿で泥道を歩いて参詣することは、現代の私達にはちょっと分からない無理があったのです。それでも何としても参詣をしたい。それで思い切って人力車を奮発してでも参詣したというのです。

 

 現代は車社会ですし、公共の交通機関も発達しており、道路もほとんど舗装されていますから、「雨が降ったら車で」というのも、まあ当たり前のように感じますが、当時は全く状況が異なっていたのです。貧しい時代の庶民です。平生はあらゆることに随分節倹しているのです。そんなご信者が、参詣ご奉公の為ならと思い切って人力車を雇ったのです。

 それでこそ「御法にとりては此人仏祖のみこゝろに叶ふもの也」との後の御指南のおこころが理解できます。信行ご奉公の為なら、雨や遠さはもとより、さしずめ何千円といった足代もいとわない。ご信心が好きで、参詣せずにはいられない。とにかくどうぞしてやりくりする。自然に「信心第一」となっているわけで、こういうご信者こそが仏祖のご本意に叶い、ご守護もいただくのは当然といえば当然です。

 

 

 

 

 また御教歌の下の句には「いのちをさへにをしまざりけり」と仰せですが、これも世法のことでいえば、例えば釣にせよ、ゴルフにせよ、登山にせよ、本当に好きになってハマッてしまうと、どれほど忙しかろうが、疲れていようが、寒暑も天気ももののかわ、費用も危険も顧みず、とにかく無理からでも何とか工夫・算段をつけ、嬉々(きき)として出かけます。現にウソをついて会社を休んでまで日本シリーズを観戦したり、命がけてドブ川に飛び込んだ野球ファンが少なからずあったことと思い合わせれば、これも時代を超えて通じることだと申せます。傍からは酔狂としかみえなくても、当人にとってはこれ以上の愉しみはなく、それがまたストレス解消、元気の源ともなっているわけで、もうそこには理屈も損得勘定もありません。習い事などでそうなると、当然上達もし、それが嬉しくて更に身が入ることとなります。これが信行の上でなら文字通りの「不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)」(寿量品)の姿です。


○「物事の上達はかけた時間に比例する」

 

 松岡佑子(ゆうこ)さんといえば、超一流の同時通訳者で、日本の出版史上空前の大ヒットとなった「ハリーポッター」シリーズ(日本語版)の翻訳・出版で一躍有名になった女性ですが、この方があるテレビ番組(「はなまるカフェ」平成141029日放送)にゲスト出演した際の言葉が今も強く印象に残っています。ちょうど同シリーズの第4巻(上下)が刊行され、上下2冊で1セットであったにもかかわらず230万部が売れた頃でした。(なお原著者の英国人女性、J・K・ローリングさんが、同書が世界60数カ国で翻訳・出版されたこともあって、過去1年間の収入が230億円に達し、英国の長者番付の上位に入ったというニュースも最近流れました。)

 

 松岡さんは、実は国際基督教大学での専攻は日本史だった由です。ただ英語の発音が以前から好きで、それでずっと英語の勉強は続けていたのだそうです。

「印象に残った」というのは、番組司会者との次のようなやりとりでした。

 司会者…「どうすれば私達も英語が上達できるのでしょう。何か秘訣(ひけつ)は?」

 松岡氏…「語学に近道はありません。『佑子の第一法則』というのがあるんです。それは『物事の上達はかけた時間に比例する』というんです。失礼ですが、大変お忙しいお仕事の中で、英語の学習にどれくらい時間をお割(さ)きになれますか?」

 松岡さんは、以前から英語の音が好きだったとはいえ、ここまでになるには、やはりそれだけの時間をかけ、努力を積み重ねてきたのです。やはり一流の人の言うことは違うと思いました。

 

 開導聖人は別の御指南に仰せです。

「手習(てならい)する子に遊ばしてくれと云(いう)と、ちとやすめと云との二筋(ふたすじ)あり。

 信者口唱に二筋あり。

口唱をたのしむものと

いやがるものとあり。

諺曰(ことざわにいわく)、すきこそ物の上手なれ 真実の御弟子旦那云々」

 (如説修行抄御文段並略註・扇全9巻392頁)

 同じお習字・勉強でも、すぐに嫌になって「遊ばせてくれ」という子と、先生の方が「そんなに根をつめず、ちょっと休んだらどうか」と言うほど夢中になる熱心な子とがあるが、ご信者にも口唱信行の好き嫌いの二筋がある。願わくは信心を好きになれ。それでこそ本当の如説修行のご信者といえるのだから、とのおこころです。

 

 また別の御指南には次の如く仰せです。

「折伏修行に御利益と云(いう)褒美(ほうび)あり。諺曰、たのしみなくてはつとまらぬと。今、本門の信者も御弘通と浄土参拝の志願(しがん)あるによりて、今日(こんにち)のいとなみもものうからず。又今日無事達者にて暮らすも、口唱信行の御蔭也と喜べり。」

(開化要談九・扇全13巻240頁)

 

 お互い、できることなら最初から信行ご奉公を好きになれればそれに越したことはありません。しかし、もしそうでなくとも、まずコツコツと参詣や口唱等の信行に努め、それを積み重ねていけば、そんな中でいつしか興味も深まり、次第に楽しみも感じられるようになって、だんだんに好きになっていくものです。するとまたお計らいも感得して徐々に信心が上達していくのです。また同時に、お計らいを楽しみにして努力していくということも大切ですね。

 

 お役中は、自分のお役のご奉公についてこうしたあり方なり、方向性を持って努力していくことが大事であり、また受け持ちの一般ご信者を育成していく上でも、同様の姿勢で教え導いていくことも考えていただきたいと存じます。

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