日本水仙が咲きました。
2014年1月30日(木)
 

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 秋、鉢に植え付けた日本水仙の球根の花が咲きました。良い匂いもしてます。背景に写っているのは沈丁花の赤い蕾でかなり膨らんできています。

  明日は春節〔旧正月。今年は131日〕です。もう春ですね。
 130日には、福岡にもPM25が沢山飛んで来てて夕方の犬の散歩の時にはダチョウ抗体マスクをしました。(J・M)

枝下梅の花が咲きました。
2014年1月25日(土)
 

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 自宅の玄関前に置いてある鉢植の枝の垂れた紅白の梅の蕾がふくらみ始め、特に白梅は花が咲き始めました。  因みに、後ろの背景に写っているのは、プランターに植えているオオトクサです。年中、青くて綺麗です。(J・M)

 

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 昨年の初夏〔6月〕、青仔で我家に来たランチュウが、その後、成長とともに体色が青から橙色に変わったのは、昨年の「心象往来」〔201388日付けの画像〕でもよく分かっていただけるかと存じますが、現在の状況は次の通りです。
 今、ランチュウは2匹共に元気で、体長も89センチまで成長。考えた末、屋内から屋外の大きなクーラーボックスに移し、上蓋は外してヒーターを入れて水温を20度に維持し、餌もやってます。
 屋外の金魚池で越冬させる場合、通常なら冬眠に準じた形で餌断ちをし、春になって水温が上がってきてから餌を与えるものだと存じますが十分な深さのある金魚池も無かったので、苦肉の策としてこうなりました。
 なお、パピルス〔夏にブログで紹介〕の根元で蚊を絶やす為に飼っていた黒メダカは、水を干す関係上、屋内の水槽に移してます。殖えてました。(J・M)

⑯「稽古」の大切さ(1)
2014年1月7日(火)
 

    =シミュレーションやイメージトレーニングの活用も=

 

〇「……のつもりで」の稽古を

 

 前回は「異体同心」をテーマに、当宗の「異体同心」は、〈四海帰妙・浄仏(佛)国土を期し、自他の現当二世の大願成就という、この上なく大きな目的の達成のための壮大なプロジェクトにおいて求められる「構成員の結束」、「チームワーク」だともいえる〉こと。そして〈教務はもとより、お役中やご信者も、各自がそれぞれプロジェクトの各部門・各レベルの指導者であり構成メンバーであって、その意味では一定の目的達成を目指すキャラバンや越冬隊、登山隊と同じところがある〉こと。そしてそこで求められるのが、まず〈同じ目的に向かおうとする「共感」であり、構成員相互の「信頼関係」なのであり〉、これを破り崩(くず)す行為こそがチームワークの大敵となること。この異体同心を破る(同破[どうは]・破和合僧[はわごうそう])主たる要因は凡夫の我(が)であるから、構成員のすべてが仏祖のみ教え、御指南をこそ規準・定規として我慢偏執(がまんへんしゅう)を抑(おさ)え、結束を図る努力が大切であること。そして構成員の信頼を破り疑念を生ぜしめるような言動・振る舞いは結局「共感」を失わせ、同破へと導く原因となるのであるから、構成員一人ひとりはもとよりのこと、特に組織全体に対する影響力の大きい教務やお役中などリーダーたるべき者は、信義に悖(もと)る言動をしたり、背信的な行為を行って、自身が同破の大罪を犯すことのないよう十分に心する必要があること等を記しました。

 

 なお「破和合僧」の「僧」は「僧伽(そうが)」(サンガ)の意で、これは僧俗を含めた仏教教団の組織全体を意味する語です。出家の僧尼と在俗の信者とを区別しての僧に限った意ではありません。「和合・結束した教団組織のありよう」を「和合僧」というのです。したがって「破和合僧」とは、「共感と信頼に結ばれた仏教教団の異体同心の結束を破ること」です。法華経でいう「法師」が、出家の僧侶に限らず在俗の信者であっても妙法を信じ他の人々にも妙法の信唱を勧め弘通する者すべてを指すこともあわせて思えば、現在では私共佛立教講こそが「法師」であり、その組織が「僧伽」であるとも申せましょう。

 

 さて今月は「稽古(けいこ)」の大切さについて記したいと存じます。稽古の「稽」は「とどまる、とどめる」、「はかる、かんがえる、くらべる」、「おなじ、いたる」等の意があり、「稽古」は「古(いにしえ)の道をかんがえる」意であり、転じて「学問、学習する」、「練習する」意(諸橋・漢和大事典)となり、要するに「くらべて考える」、「ひきくらべる」意(岩波国語辞典)です。ちなみに「習」は「ならう」、「よく知る」、「よくできる」意で、元は「雛(ひな)が翼(つばさ)を動かして飛び方を練習する」、「くりかえして行う」意から成っています。

 芸事にせよ何にせよ、秀れたものを身につけようとするなら、まずはやはり立派なお手本を求め、できれば先達の指導を受けて、お手本に近づくよう稽古・練習に努めることが肝心です。書道でいう臨書はまさしくそうで、古今の名筆家の書を手本として、その筆使いや筆勢、字形字配りからその書家の精神まで、そのすべてを「ひきくらべて」、自分もそれに近づくようにくり返して書くわけです。この稽古の大切さは何も芸術・芸事・学問等に限られたことではありません。政治はもとより世の人の営みのあらゆることに必要な大切なありようでしょう。いわゆる「温故知新」にも通じ、「歴史に学ぶ」にも通じます。「ひきくらべて」、「同じになるよう」、「くりかえして行う」ことが大切なのです。

 これを別の言い方で申せば「……のつもりで」ということにもなります。これはいわゆる「シミュレーション」とか「イメージトレーニング」にも通じるわけです。剣道でいう「見とり稽古」やボクシングでいう「シャドーボクシング」などもそうした練習・稽古の一つではないかと存じます。要は立派なお手本や型をなぞり、くりかえし習ってその基本を身につける、その際自分が本番を迎えた時を想定して行い、さらにできるだけ本番に近い情況での可能な限りの実地訓練を何度も行う、そうして実地に臨み、その経験をふまえてさらに練習を重ねる。そうするなかでいわゆる臨機の対応の幅も広がってゆく。上達とはそういうことでしょう。雛鳥は、親鳥が巣から飛びたち、巣の周辺で飛翔する姿を見、巣に戻ってくる様子を何度も見、それを真似てまず羽ばたく練習をする。現実にはまだ飛べないとしても、飛んでいるつもりで、体全体でそれが修得できるよう、くりかえし稽古をします。そのうちに翼が風を得るコツを実感し、巣の上でわずかながら体が浮くようになり、翼の力も強くなって、ついに命をかけた本番、巣立ちに臨むわけです。もちろんその後も一人前になって独り立ちし、子孫を残せるようになるためには随分様々な稽古と実地がくり返されるのでしょう。スポーツ選手が実戦・本番に備えてまず体力作りや技の習得の訓練を積み、さらに模擬戦や、シミュレーションなどを重ねて実戦に臨み、その実戦経験を踏まえてさらに訓練や工夫・改良を重ねるのも同じでしょう。

 

○シミュレーションの有効活用を

 先ごろ「佛立研究所」から発刊された同研究所の公開講演会の講演録である。『耳をすまして』(Vol 1)には、臨死体験の研究者として著名なカール・ベッカー氏(京大総合人間学部助教授、平成2年の講演当時)の「死をみつめると 生がみえてくる」との演題での講演録も収められていますが、その中で、氏は次のように言っています。少し長くなりますが、一部をそのまま引用・紹介します。

 〈14、5歳のとき父親とロッキー山脈のキャンプに出かけました。(中略)季節は6月で山頂の雪は溶けはじめのころです。雪崩(なだれ)の注意報が出ていて、山中を流れる川の水も雪が混じりものすごい勢いでした。

 ある朝、暗い森を抜けて広い平地に出ました。そう遠くないところに急流の川が流れていました。少し上流で10~12歳の子どもが二人川を渡ろうとしていました。私がそれを認めるや否や、父親はリュックを投げ捨て、信じられない勢いで上流のほうに走り込んで急流を渡り、2人の子どもを抱きかかえてこちら岸まで戻りました。(中略)

 父親は、氷水の流れる急流を往復したこともあって首までびしょ濡(ぬ)れになってしまいました。(中略)私たちは目的地まで行けずにその場でキャンプを張ることになりました。

 キャンプの用意をしながら2人でいろいろな話をしました。「なぜ、あのような行動をとることができたのか?」私は不思議でならなかったのです。父親曰く「お前もラジオを聞いていただろう。この急流で毎年死者が出ていると言っていたことを」。私は「聞いていた。それで?」。「それを単なる情報として止めておくのではなく、情報をわれわれがいかにかかわりを持って、どう行動すればよいのかを考えなければ情報は無意味なのだ」と父親から説教されました。川の流れが急、そして氷水の状態で危険となれば、これが何を意味するのかを考えなければならない。われわれは、よほどのことがない限り流れを渡るのは避ける。万が一、人が渡ろうとするときは助ける必要がある。

 このようなことを頭の中でシミュレートするというのです。頭の中で練習していれば、イメージトレーニングと同様で、現実にその場に出合わせたときに即行動に移せます。単に情報としてあるだけではどうにもならないというわけです。

 日本に派遣されたビジネスマンが、日本人は礼儀正しいと知っているだけなのと、あいさつの練習をしたり、名刺交換から正しいあいさつを実行できるように頭の中だけでもトレーニングするのとではかなり違います。正しいあいさつを実行できる外国人とできない外国人との差はそこにあると思います。すると、われわれが毎晩一日の行動を考えるときに、ただ単に「あれがあった、これもあった」と思い返すだけでなく、よかったことならば明日もそれを活かして何ができるのかといったことを頭の中で考えていくことが大切になります。逆に、相手にへんな顔をされたことについては、「むしろこういえばうまくいくのではないか」といった頭の中で練習をすることです。このようなことをやっておくと、不思議なことに頭の中で練習したことが現実に現れてくるのです。

 語学を勉強しているときでも、はじめてある漢字を覚えるときに、不思議なことにいろいろなところでその漢字が目に入ってきます。それまでに、その漢字はさまざまなところに存在していたのですが、自分が認識していなかった。漢字を覚えると「あっ、ここにもあった」とわかるように「このような言い回し」、「このような人に対する態度、接し方」がわかるということになれば、いろいろなところでそれが機能するようになります。このような「一日の反省」などということは私が皆さんに対して言うまでもないことで、申し訳なく思います。しかし、これは臨死体験を活かす方法の一つだと思うのです。つまり、自分の末期(まつご)まで待たないで今のうちに自分の生き方を考えるということで活かせると考えているわけです。〉(同書122頁~124頁)


ある情報を得たときや、ある予定があったりある予測が与えられたとき、そのまま聞き捨てたり、ほうっておいたりせず、その情報をもとにして将来起こることを想定し、それに対する自身の行動をイメージし、シミュレートし、予行演習なり練習なりをして備えることがいかに有効で大切か、よくわかる話だと思うのです。名刺交換一つでもそうですが、漢字の学習も興味深いですね。今まで自分の周囲にあふれていたその漢字も、こちらに学習を通じて持つことになった意識や関心がなければ全く目にも入らず見過ごしていたのですから。「思っていたことが不思議に現実に起こる」と言っておいでですが、これは不思議なことではなく、自分の姿勢によって自分に結びついてくるのですね。
例えば「お教化のご縁」をいただくのもそういうことでもありましょう。こちらに、そういう縁を想定し、それに対応する準備・努力が全くなければ、縁があってもそれと気付かず通り過ぎているのでしょう。電車の中で「サッと席を譲る」といったちょっとした行為も、イメージトレーニングを含めた稽古の有無で決するでしょうし、参詣の往復の道などで知人に会って「どこへ」と聞かれて「お寺よ」「御講参りの途中よ」等ととっさに自然に返答する、そういった会話ひとつでも、普段からそのつもりでイメージしているのといないのとでは違ってきます。


こうしたことを踏まえつつ、結縁、奨(将)引、ご披露、御講席でのお給仕や準備などについての「稽古」の大切さについて、さらに次回で申しあげたいと存じます。

 

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 昨年の夏、近くのスーパーで、買い物が済むのを待っているところです。たまたまアンパンマンのぬいぐるみがあって、たまたまその横に座っていたのです。

 やなせたかし氏が亡くなって…NHKの特番もありました。戦争等でそんなに苦労し、辛い体験をなさった方だとは知りませんでした。アンパンマンは、そんな中から生まれたのですね。

 もう少しニッコリしてたら良かったけど。(J・M)