―幹にこそある花の色―


○「妙法受持の凡夫(ぼんぶ)」即(そく)「本因妙(ほんにんみょう)の菩薩」とは


 佛立宗の教えの精髄(せいずい)は、「末代悪世のおたがい凡夫がその身のままで即身成仏の果報をいただく方法は、久遠のみ仏が自ら明かされた成仏の因となる修行(これを本因妙の菩薩行という)をそのままにさせていただくことである。そしてそのためにこそ、み仏は法華経本門八品を説いて、自らが本因妙の菩薩として唱えられたのと全く同じ御題目を上行(じょうぎょう)菩薩に授けられた。だから凡夫が上行所伝の御題目を受持信唱させていただけば即身成仏ができる」ということです。


このことを少し別の角度から言いかえれば、菩薩行の中にこそ、凡夫がその身に頂くことのできるみ仏の果報【いのち】があるということでありましょう。


でもこのことは、なかなかすっとは理解し難いことではないでしょうか。ご信者の中にも、そうした方はあるのではないかと存じます。と申しますのは、元来が菩薩というのは、仏になること(成仏)を目ざして修行をしている段階の者を指すものであり、成仏を結果とすれば菩薩行は原因です。そして原因が結果を生むには、程度の差はあれ、通常は必ず時間の経過を要し、また「因の菩薩」と「果の仏」とは、例えば姿一つ取っても何らかの違いがあるのではないか(青虫やサナギと羽化した蝶のように)ということです。

  そして実は、これは小乗仏教以来、大乗仏教でさえ多くの方便・権教(ほうべん・ごんきょう)ではそう説かれていることが多いのです。

 例えば「ジャータカ」(釈尊の前世物語)などでは「菩薩」といえば釈尊の前世の姿に限られています。ところが真実教である本門法華経の教えでは「『本因妙の菩薩』は『因の如来』であり、しかもそれがそのまま成仏をしている姿である。そして凡夫であっても本因妙の菩薩行をさせていただくときは、その身そのまま即身成仏をしている」と説かれ、さらには「凡夫が成仏をさせていただく方法は本因妙の菩薩行しかなく、他の教えは全て誤りだ」と教えられるのです。

  いっそ方便・権教の如く、「凡夫が成仏するためには長い困難な修行が必要で、場合によっては何度も生まれ変わって修行しなければならない」(歴劫修行[りゃっこうしゅぎょう])とか、「死んで別の世界に往生[おうじょう](往[ゆ]き生[う]まれること)して初めて成仏できるのだ」(往生成仏)とか言われた方が、むしろ納得し易いのかもしれません。事実、念仏など他宗の多くは、今もこれに類した教えを、あたかも真実であるかのように説いているのです。

けれども、まことの真実の教えである本門法華経の教えは前述の如くなのです。これをどのように理解すればよいのでしょう。

 私にとって、このことを自分なりに納得させてくれる助けとなったのは、染織家の志村ふくみという女性が、その著書の中に記した自らの経験を通しての感懐の言葉でした。


○幹にこそある花の色


 染織家というのは、草や木から(多くは煮出して)取り出した自然の染料で天然の糸を染め、その糸で布などを織る人のことですが、志村さん(現・人間国宝)は、花を咲かせる前の三月の桜の枝や幹から染まった桜色が、花の後の九月の桜の枝からは染まらなかった経験を引いて、その著『一色一生』([いっしょくいっしょう]求龍堂刊。現在は講談社文庫からも出ています)に次のように記しています。


少し長くなりますが引用します。

「その時はじめて知ったのです。桜が花を咲かすために樹[き]全体に宿している命のことを。一年中桜はその時期の来るのを待ちながらじっと貯(た)めていたのです。

 知らずしてその花の命を私はいただいていたのです。それならば私は桜の花を、私の着物の中に咲かせずにはいられないと、その時、桜から教えられたのです。

 植物にはすべて周期があって、機を逸すれば色は出ないのです。たとえ色は出ても、精ではないのです。花と共に精気は飛び去ってしまい、あざやかな真紅や紫、金黄色の花も、花そのものでは染まりません。

 友人が桜の花弁ばかり集めて染めてみたそうですが、それは灰色がかったうす緑だったそうです。

 幹が染めた色が桜色で、花弁で染めた色がうす緑ということは、自然の周期をあらかじめ伝える暗示にとんだ色のように思われます。」(同書「色と糸と織と」の章の22頁)


そして次のようにも言っています。

「ある時、私は、それらの植物から染まる色は、単なる色ではなく、色の背後にある植物の生命が色をとおして映[うつ]し出されているのではないかと思うようになりました。

 それは、植物自身が身を以て語っているものでした。こちら側にそれを受けとめて生かす素地がなければ、色は命を失うのです。(中略)

 ただ、こちらの心が澄んで、植物の命と、自分の命が合わさった時、ほんの少し、扉が開くのではないかと思います。

 こちらにその用意がなく、植物の色を染めようとしても、扉はかたく閉ざされたままでしょう。」(同書19頁~20頁)

 この志村さんの文章の中の「桜の花」を「果の仏」に、「花の前の幹」を「因の菩薩」に置きかえてみたらどうでしょう。

 花はいくら美しく見えても、花弁そのものからは桜の色は染まらないのです。これは果の仏からは、直接にはみ仏の果報はいただけない。そうではなくて、「花が咲く前の幹」にこそ、糸を桜色に染める花のいのちがある。つまり「因の菩薩」の中にこそ、凡夫がこの身にそのまま移しいただくことができる本当の色「花のいのち」があるのです。


○「妙法の世界」は「いのちの世界」


 妙法の世界は、客観的・科学的な因果の世界ではなくて、まさしく生きた「いのちの世界」なのです。だから、幹の中にこそ糸を染めることができる花の精華があるように、本因妙の菩薩行の中にこそ凡夫がいただくことができるみ仏の魂が息づいているのです。


また、植物のいのちを色として染めるためには、染める側に、素直な、そのままいただく心が必要で、そうでなくては精気のある色が発色しないように、また自分のいのちと植物のいのちとが一つに合わさって初めて自然な本当の染めが出来るように、凡夫が妙法をいただく際も、我(が)を捨てて素直に信唱させていただかなくては、御題目にこもります「み仏のいのち」もそのまま私どもに移し、いただくことができないのです。


開導日扇聖人は御指南に仰せです。

「門祖曰、口に唱へ心に納(おさ)め、五字と信心と和合(わごう)すれば、行者即(そく)上行菩薩同様になりて、其身(そのみ)即宗祖大士(しゅうそだいじ)と同じやうに如来の御使となる処を、本因妙の上行菩薩、因の如来の即身成仏と申也との、五帖抄の御指南也。

忘るゝ事なかれ」(扇全8巻167頁)


「今末法下種(げしゅ)の時、本門の肝心上行所伝の題目を信行する人は、本地報仏(ほんじほうぶつ)、最無上(さいむじょう)の釈尊の本因妙の御位たる本化(ほんげ)上行菩薩と同体となるなり。これを本因妙、因の如来の即身成仏といふなり。」(扇全16巻62頁)


こうして、御指南を頂戴し、改めて当宗の教えに思いを致すとき、時間を超えて、たとえ本仏、釈尊、上行菩薩、日蓮大士と、お姿は異なっていても、しかもすべて全く同じ妙法のいのちの連鎖とでも申しあげる他ないこと、そして、私ども現在の凡夫も、上行所伝本因下種の御題目をいただくときは、同じみ仏のいのちがそのままいただけるのだということが、誠に有難く心に染み入ってくるのです。

 共々に素直な心で受持信唱させていただくことが大事大切です。


※志村さんの『色を奏(かな)でる』(ちくま文庫・C―14―1)も参考に読んでみてください。同書はかつて岩波カラーグラフィックスの『色と糸と織と』の原題でも出ていました。